『strange-orange』

おれが今住んでいる街は頭にくるようなクソ田舎だ。物はある。街は使われなくなった実家の物置みたいにモノがあふれている。鬱陶しいほどモノがあるのに、欲しいもの、必要なものは呆れるくらい手に入らない、眩暈がするようなド田舎だ。しかも滅茶苦茶に虫がいる。今おれが歩いている足元にも蝉の死骸が転がっている。これは百メートルおきに置いてある千里塚みたいなもので、ここではこれが普通らしく周りの人間達はまるでそれが道に貼られたテクスチャマッピングだとでも言うように素通りしていく。信じられない。昨日は鳩の巣を見た。平和の象徴は赤黒く虚ろな目をしていた。ぞっとした。おれは田舎の都会町を経て”都会の”田舎町から引っ越してきた世間知らずの田舎者だ。どこにでもいる一般ピープルだ。おれはここにきて本当の田舎がどういうものだか知った。知りたくなかった。知り合いが頬を染めて『実は……触手も結構いけるんだよね……うふ、うふふ』と言い出したときも大概だと思ったが、それよりなお悪い。触手好きの友人は口から蝉の死骸を吐いたりしない。側溝の穴から、草の影から、アスファルトの割れ目から、この街の色の無い土は虫の死骸を吐きだす。この間家の外階段がコガネムシを吐いているところを見た。おれは自分の目を、頭を疑った。死骸は本物だった。誰かに踏みつけられたそれは潰された無残な姿で今でも家の階段にいる。

ここがもし普通の、田園風景のあるような田舎町であるなら。そう、田んぼがあるだけましというものだ。ここではイネや麦、その他口に入って腹を満たす様々の代わりに何に使うかもよくわからない人間がぞわぞわとハサミで梳きとられた陰毛みたいに生えている。つまるところ、”まばら”ってことだ。まばらに生えた陰毛。おれはあれが見知らぬ他人の吐瀉物と同じくらい嫌いだ。あの中途半端に長さが残って反り返る様、下着に絡まって毛穴をびんと張るあの無様さったらない。怖気がする! おれもそのうちの一人だと思うとそれだけで発狂しそうだ! ああやだやだ。普段は考えないようにしている。ああ、そうだな、空がきれいだ。殺人的な太陽光線は俺を照らし、もくもくと立ち上る入道雲は夕立のリズムで俺を祝福している。どこがだ。ぶち殺すぞ。ざあざあざあざあ振りやがって。なにが雷鳴のシンフォニーだ。稲もないのによく鳴るもんだ。
とにかくここは、流行遅れで、なにもなくて、おれの苛立ちをとことん煽るクソみたいな土地だ。空虚なロケーション。荒れる天候。つまらない毎日。まるでレーンの上を回り過ぎてカサカサに乾いたタコの寿司みたいな日々だ。重ねてここはクソ田舎。こんなところで一生過ごしておれは死ぬのかとたびたび思う。でも仕方がないんだ。死ぬ思いで見つけたおれの仕事は張り巡らされた通信網を通してはできないし(通信網とは言うが、この土地には有線が通っていないので、通信電波は空からの賜りものだ。当然昼飯十回分の通信費がかかる。デジタル・オーディンに祈るのもただじゃない)仕事場はこの埋立地のゴミ捨て場みたな場所から更に北上した、ハンバーガー屋の代わりに個人経営のコーヒー屋があるような海辺のクソクソクソド田舎にある。おれはコーヒーが飲めない。飲んだら最後、腹を下し、羞恥に震えるおれの膝は床と熱烈なキスをする。あれはマジで洒落にならない。下手すりゃ自販機前のべたついた床で一時間のおねんねだ。これは祖父の代からのクソッタレ遺伝だ。クソッタレと言えばアルコール。おれはアルコールもだめだ。大学で海産物の研究をしていた祖父は盆のおれとは違い一族きっての大酒呑みだった。おれは下戸の父に似た。
ああそう海産物と言えば、おれは海が嫌いだ。河口に逆流した潮が貝を腐らせて紙パックの羊羹みたいな川にドブ以下の悪臭を放つからだ。実際そんな光景を何度か見た。しかし。しかしだ。おれは若く、街の外に仕事のツテはない(この若いっていうのは健康だとか、見た目が良いとかっていう意味じゃない。ただただ未熟だってことだ)。早い話がおれはここを出たら生活していけない。
ああクソ、おれはこんなところで一生のうちの貴重な二十代を過ごすのか。おれはまだ若い。つまりそれは年長者に舐められるってことだ。実際軽く見られている節がある。死ね、あのクソ老害ども。死んでおれに引っ越し費用をよこせ。香典返しだ。
何度も言うようだが、この街は最悪だ。路地裏は小便臭いし、表通りには変な奴がうろついている。変な奴、変な奴だ! おれは夜中にぶらついていて、ジョギング中と思しき丸い豚みたいな野郎にねっとりとした視線を浴び、あまつさえ声を掛けられた! 当然おれは逃げた! 別の日には車椅子で道を走っている奴に職務質問もされた! 何が職務質問だ。お前は誰だ、何の権限があってやっている、と言ってやりたかったが、生憎仕事帰りのおれにそんな力はない。おれは目を合わせたままそっと離れて逃げた。そんでもって裏通りには殺人タクシーが客も載せずに走り回っている。おれは何度か轢かれそうになった。この街はろくな場所じゃない。

しかも、しかもだ。こんな暮らしをしているおれの給金は不当に安い。おかげで俺は生命保険に入れない。金がないからだ。金がないのはおれのせいじゃない。おれには借金もないし酒もやらない。煙草は止めた。原因は一つ、おれの月の給金が異様に安いからだ。いや、この言い方は少し語弊がある。おれのと言わず給金は大体どこに行っても安い。不景気だからだ。おれはこれでもましな方だ。これでも、ましな、ほうだ。考えたくもない。なんとか屋根と鍵のある家に住めているし、ありがたいことにおれの家にはおれ以外の誰もいない。考えたくもない、本当に。
一人の生活は良い。台所で服を脱ごうが、居間で自慰をしようが、風呂で飯を食おうが、便所にカラオケセットを持ち込もうが誰にも咎められることはないし、洒落たジャケットを椅子に放っておいたとして誰かが勝手に持っていくこともない。鬱陶しい同居人に『アーハァ……あたしィをォ……殴ってみろよォ、なあって……』と座椅子に引きずり倒されて伸し掛かられることもないし、頼んだ飯が炊けてないとなじられることも勿論なく、借りた覚えのない金を返せと請求されることもない。なんて女だ。あんなでも俺より四つは年上だ。どうなってやがる。
話がそれた。しかし考えたら生きているのが嫌になってきた。前に住んでいたところは近くの道を日に三回は救急車の通る修羅の国だった。それでもまだましだったと思うのは、いまは住んでいないからだろう。電子レンジしか設備の無い、安ホテルのスイートみたいな部屋で暮らしていた俺は冷食の食べ過ぎで二キロ太った。あとあの辺の海はまだ綺麗だった。もしかしたらあれは海じゃなくて湖だったのかもしれない。ああ、早く死にたい。おれが何をしたっていうんだ。なんで生きてるだけで人から文句を言われなきゃいけないんだ。何故生きるのはこんなに苦しいんだ。金をくれ。月に三十万でいい。三十万あれば家賃と税金を払っても二十万残る。健康な生活もできる。二十万あれば女も買えるし家にある通信端末を新調することだって…… できないな。女を買うなら四十万無いと飯が食えなくなっておれが死ぬ。なんてことだ。生きるのが嫌になってきた。金が欲しい。

畜生、故郷に帰りたい。

おれの故郷にはもう何もない。家はある。たいして広くもない実家は親との折り合いが悪くなって飛び出してきたし、そうでなくともあのクソむかつく同級生の群れの中に戻るのはまっぴらごめんだ。おれは小学生のころ隣の席の奴に虐められていた。あいつはおれの理科の教材を半年も隠し持ったまま、おれの学校内での地位と成績をCまで下げた。畜生め。そうでなくたって知り合いのいる街で働くなんてぞっとする。おれは人の顔が覚えられない。友人の顔は辛うじて覚えているが、同級生の顔なんかはもうさっぱりで、知り合いの親レベルになるともはやジャガイモだ。たとえ話をしよう。ひとつひとつ形の違うジャガイモをでっかい箱段ボールから一個だけ取り出して、三十秒見てから箱の奥に詰め戻して、次に目の前に出されたときに最初に掴んだ『それ』だと判別できるか? おれはできない。相手にはどうやらできるらしい。そういうことだ。おれはジャガイモ鑑定士の才能がなくて故郷にいられなくなった。無論それだけじゃないが、まあ、そんなところだ。
畢竟、故郷には帰れないってことだ。小さいころはおれもハイスクールに通う歳頃になればハンバーガー屋のレジ打ちアルバイトをするんだろうと思っていたが、おれが”はえある”ハイスクールスチューデントになる前にハンバーガー屋はなくなった。うまい弁当屋も、通ったゲーセンも、子供の頃親に手をひかれて行ったショッピングセンターも、いつかおれもと憧れた都会的ファッションの店も潰れた。真におれの故郷といえる景色は、もう俺の頭の中にしかありはしない。畜生。

腹が減った。晩飯は砂糖水と醤油で煮た鶏の肉だった。当然あれはブロイラーだろう。おれの飯はめちゃくちゃに安い。晩飯一回抜いたところで、ゲーセンの筐体ワンプレイが関の山だ。プリクラも撮れない。でもプリクラって高いよな。いまならあんなでかいマシン使わなくても写真なんかいくらでも撮れる。一緒に写る相手がいればもっと純粋にいい時代だと言えたんだろうが。まあ、そんなことはどうだっていいことだ。友達だっていないわけじゃない。ハイスクールを出てから就職でバラバラになって行方知れずなだけだ。何の話だ。ああそうだ、飯だった。おれは糊口をしのぐために仕事に通って、少ない賃金を得て大喜びをして…………してないな。ここでなんのためらいもなく大喜びできる人間だったら生きるのももう少し楽だったんだろうが。これでもおれはわりと理知的で優秀な人間の部類に入る。つまり、精神を病みやすい。はは、笑えない話だ。通ってた相談室の、学校付きのカウンセラーからは何も言われやしなかった。ただ一度、(サージカルステンレスの)ピュベスを入れようと思ってると言ったときだけ、理解不能だって顔をされた。いや、実際そう言われたんだったか。何を言っているのか(本当の意味で)わからないから助言のしようがない、つまりはそんなようなことを言った。もともと思い付きで言ったのもあるし、おれもそれきり気が萎えてこの話はそれから誰にもしていない。懐かしい思い出だ。あのときは仕事で貯金が出来たらやろうと考えていた。今はごらんの有り様だ。
おれのやっている仕事は……合法の、ああなんだ。機密事項を扱っている。てっとり早く結論から言うと副業ができない。できたとしてもおれは徹夜どころか八時間働くのもやっとの体を引きずって日々をやり過ごしているわけだから、可能だったとしても何が変わるわけでもない。日中働くだけで五十万欲しい。誰か何とかしてくれ。春闘の申し込みってどこに行けばいいんだ。

おれの体は弱い。とにかく弱い。どれくらいかと言えば、全力を出して十分走るとその先一週間は歩くのに難儀する。会社の急な階段を上がると自律神経が滅茶苦茶になる。血圧は異常に低い。太陽光を浴びると息が切れる。コーヒーが飲めないのは知っての通り。この間リュックを背負って半日歩いたら腰痛になった。
おれ自身の肉体自体が枷のような生活で、それをブーストできるだけの金はない。だから人並みに生きるためには頭を使わなくちゃいけない。そうして俺は思いついた。残業をし続けて仕事場に泊まれば通勤時間と家賃が浮く。しかしこれは計画倒れになった。おれの体がもっと丈夫だったらこの策がつかえたが、人生ってやつはそう思うようにはいかない。それはそうだ。おれのこの体の虚弱さはどうにもならない。丈夫な体を酷使(当てに)して金を稼ぐ計画なんて立てるだけ無駄というものだ。おれは無駄なことをしたのだ。貴重な休憩時間を削って。さておき残業の話だ、慢性的な睡眠不足は健康を害すが、早死にすればこの搾取と欺瞞に満ちた世界からとっととおさらば出来る。死。苦しみからの解放。それはおれの価値観から見ればそう悪いことでもない。というか、通勤時間の北上する車の群れに飛び込んで死のうと思ったおれからすると、過労死はかなり上等な死に方だ。たとえ事切れたのが路上だとしても。少なくとも轢死とは違って体は丸々残るし、おれはあの太陽に焼かれて変な臭いのする車道の染みにならずにすむ。ついでに轢いた車から訴訟を起こされて命を失った体からさらにケツの毛まで毟り取られることもない。万々歳だ。
おれが、この”若く””尊い”命を散らすことに一切のためらいがないとするならば、だが。はは、笑えねえ。

そういえばここはむかつくほどのクソ田舎だが、窓の外は排ガス臭い。そういうところがむかつく。一昨日きやがれってんだ。空は中途半端に広く、おれの更なる苛立ちを誘う。そして空は大概曇っている。時折それは雷鳴を響かせ、おれの楽しい時間を邪魔する。雷雨の日は電波が悪くなり、舐めるように見ていたアイドルのビデオはロード中から一向に進まない。ぐるぐる回るシークバーの楽しい輪っかはおれの人生だ。どこへも行けず、ただただ滑稽に回る。おれは唾を飛ばし、くたばれ、とか、死に晒せ、とか、そんなようなことを言ったはずだ。結局その日は見れずじまいで、おれは天井に向かって両手の中指を立てたまま眠った。

走り続けなければ死ぬが、そうなった時点でおれはもうとっくに死んでいるんじゃないか。おれは日々を希死念慮とはまた違う絶望を揺らめかせて生きている。膝を突いて倒れたらおれのてっぺんの無い頭からくろぐろとした絶望が溢れ出しておれは死ぬ。楽しいとき以外はいつだって死にたい。そしてこの街に来てから、楽しいことはほとんどない。おれには死ねない理由がいくつかあるが、死んでしまえばそれがおれとはなんの関係もなくなることを賢いおれは知っている。死にたい。失うのは嫌だ。これ以上奪われる前に命を絶ちたい。ああでもまだ生きていたい。ああ、また外から誰かの笑い声がする。むかつくこの街は夜になるとバイクや人間が百鬼夜行のように出揃って耳障りなパレードを始める。まるで蜂の群れみたいにブンブンとけたたましい音を立てて床に落ちた菓子にたかる蟻の列のように地上を這いまわる。当然おれの眠りは阻害され、睡眠不足になったおれは仕事場でやる気がなさそうに見えるといってどやされる。こんな低賃金でやる気なんか出るわけないだろ。六十万くれたら考えてやる。

散々だ。こんな暮らしをつづけたら頭がどうにかなっちまう。慢性的に金はない。ついでにここにはビデオショップもない。いや、ビデオショップはある。ただ、おれの趣味のものがなにもない。怪獣映画も、アイドルのライブ映像も、ブルーフィルムも何もかもがだ。服もそうだ。おれは仕事をするにあたって、周りから浮くと困るのでそこそこ値段のするカジュアルなシャツとズボンを着ていった。結果はどうだ? ファッションセンスをなじられ『きちんとした』服を着て来いと言われたおれは、学校時代の、式典に合わせて前の日に買ったよれよれで縫い目の端がほつけたスーツを着て仕事場に行っている。しかし評価はこっちのほうが断然良い。耳を疑ったね。どこに目をつけている? 何を見てそう判断した? とにかくおれはビビったね。あの分からず屋の阿呆どもめ。審美眼というものがないと見える。
そうだ。ブルーフィルムで思い出したが、この街には性的なサービスを取り扱う店がまるでない。あるのはおれの好みじゃない人間が俺の好みじゃない歌を歌い、好みじゃない踊りをやる酒場のちいさな舞台だけだ。当然高い。おれの趣味に合った舞台は、やっているところまで行くのに片道二時間半かかる。講演が最短二時間なので、全部合わせて七時間。おれが真面目に仕事をしている限り見に行くことは叶わない。ここだけの話、時間の事もそうだが交通費が馬鹿にならない。入場料にオプションサービスをふたつつけたとしても往復の交通費の方が高くつく。物理的に遠い。それだけ行かなきゃおれは女の裸ひとつ満足に見られない。
おれは頭にきている。非常に。このクソみたいな街でおれに許された娯楽は、実家から持ってきた無修正ハードコアポルノで一日一ページずつの自慰をすることと月に一度誕生日みたいな晩飯を食うこと、それから……それくらいだな。それだけだ。このはらわたの煮えくり返るような僻地での暮らしに対抗するおれへの精神の慰めはそのふたつだけだ。収入とそれに伴う可処分所得がほとんどないわけだから当然贅沢はできず、誕生日と言ってもフライドチキンの一つ買えない。収入以前にフライドチキン屋がないというのはこの際目を瞑るとしよう。どちらにせよ買えないなら同じことだ。ああそれで、誕生日のお祝いは大概成形肉のステーキか、最近安売りを始めたピザ専門店の特価品半額のピザだ。当然買うときはクーポンを使う。食べ終わったら、なんでもない日おめでとうの儀式をして歯を磨いて寝る。疲れているときは何もかもを放り出してチョコモナカアイスで全てを済ます。ハーシーズだ。ハーシーズのチョコモナカは一種の救いを俺にもたらす。ひと箱八スロット。弾の詰まったマガジンにするみたいに一スロット口に押し込めばとろけるクリームは滑らかで、刺激的なチョコレートソースには粒ぞろいのパフがクリスピーな調べを奏でてくる。口蓋の裏に貼りつくモナカの皮は小さいころ大好きだったアイスのコーンを思い出させる。気をよくしたおれはおれ自身の空虚を満たすためにふたスロット分を追加で飲み込んだ。
そんなことをしていたら虫歯になった。歯の音楽隊が躍り出してしまったというわけだ。おれはこんなことがしたかったわけではない。対処が早かったから今はどうにかなっているが、悪化したらどうしようもない。おれは神に祈っている。他にできることは歯磨きくらいだし、歯磨きはさっきしたからだ。

近頃おれは自傷を始めた。再開したと言ったほうが良いかもしれない。灰色のコンクリートブロックは麗しい。ジュニアハイスクール時代のおれは麗しいそれの立ち並ぶまんなかでタップダンスを踊った。ザイルを編むような硬い繊維の網を敷いて靴を滑らせる。別にやりたくてやっているわけじゃない。それは一種の賭けだ。踊る足がズタズタになるのが先か、網が足を絡めて倒れ伏すのが先か、またはそのどちらでもないか。言っておくと、これは別段珍しいことじゃない。同級生の何人かはリストカットをしていたし、他の、なんだ。そういう欲求を他者に向けて晴らしている奴もいた。ああ……その、言いづらいことだが。
まあ、いつまでもそんなことをしていたわけじゃない。おれは歳をとり、次第にコンクリートブロックを必要としなくなった。

それからのことだ。熱っぽく麗しいそれに替わり、冷たい壁が大人になったおれの友となった。何もできないほど絶望しきって、自慰のあとの熱が引く時間が来るのが始める前から耐えきれないような夜は壁に頭を擦り付け、一度二度ごつりと打ってみる。大概気は治まるし、そうでなくともなにかしていれば気は紛れる。おれはこれで何度かの夜を乗り切った。思い返してみて、とっくにおかしくなってるんじゃないかと思ったが、それはそれだ。とりあえずまだ発狂死はしていないし、幻覚も見えてはいない。大丈夫だと言うことにしておこう。しておきたい。外から集団の笑い声が聞こえるがこれも聞かなかったことにしようと思う。本当のことを言うなら石を投げてやりたいし、市内引きまわしにしても足りないし、なんだったら七十万欲しい。もちろんクリーンなやつだ。七十万に比べれば少額だが、以前それで一度酷い目にあった。くれるというから貰ったのに、手をつけたあとで惜しくなったから半分返せとのたまった。あれは詐欺だね。金の工面にえらく苦労したもんだ。いやほんとに。ほんとうにつらかった。あの野郎はおれの与り知らぬのっぴきならない事情で海辺に引っ越していった。海が嫌いなのはそれもある。

今までの話は全部、大体、大方本当の事だ。昔話以外は何一つ解決していない。酷い話だ。そして酷い話は一向に解決を見ない。


酷いの一言だ。それに尽きる。


夜中、モニタに向き合っていたら、開けていた窓から一人の男が入ってきた。男で間違いない。おれはビビった。持っていたコップを机に落としたが、中身は入っていなかった。俺は空のコップを舐める癖がある。いや、そんなことはどうでもいい。窓から男が入ってきたのだ。男だ。恐怖を差し置いて、はっとさせられたのは、そいつがちょっと他では見ないくらい綺麗な顔をしていたからだ。
おれはじろじろとそいつを眺めまわす。心臓はどくどくと、不整脈になったみたいな打ち方をしていた。なっていたのかもしれない。男、男だ。当然服は着ていたが、股座には恐らくおれと同じものが付いている。喉を改めればそこも同じように『ついて』いるのだろう。黄色っぽい肌はモンゴロイドだろうか。まあ、この街にはモンゴロイド以外の人間はまず滅多に住んでいないので考えるまでもなくそうだろう。いや違う、いや、違わない。いや。待ってくれ。ちょっと待ってくれ。

その男は夏だと言うのに毛皮を着て、軽妙に窓から乗り込んできた。何とも言えず綺麗な顔を、改めてじっと見る。若い。顔の造りに幼さを感じないからおれより下ということはないだろうが、見せようによっては十代の集団に紛れ込ませても違和感はない。ただ、おれの通っていたハイスクールにはこんな奴はいなかった。着ている明るすぎる色の毛皮や何とも言えない風貌もさることながら、やっぱり顔が綺麗すぎる。これを制服の集団に混ぜたらいやでも目立つだろう。均整のとれた京劇風のつり目、やや子供じみたパーツ配置。しかし子供特有のぼけた感じは全くなくて、見紛うことなく成人の顔だ。もっと言うなら、子供の役をやる成人の顔だ。目も口も頬の稜線もゆるゆると漂うことなくあるべき場所にカチッとはまっている。これは完璧だ。しっとりとした柔らかな肌は特別白くも黒くもなく、纏う毛皮はママレード・ジャム・アイスクリームのようなマーブルオレンジ。

おれは男に近づき、手を伸ばして肩を掴んだ。おれは男をつまみ出そうとした。家の中に誰ともしれぬ他人がいるのは恐ろしいことで、今は夜。重ねてこの男には信用できる要素が一つだってない。こいつは窓から断りもなく入ってきて夏にオレンジの毛皮を着ている異常者だ。しかもここは地上階ではない。そう、地上階ではないのだ。この男は窓まで壁を伝って這って来たに違いない。どう考えたっておかしい。尋常の人間のやることではない。

おかしいと言えばもう一つ。男の持つぎょろりとした目は金色だ。猛禽とはまた違った大きな丸い瞳の金の色。電源の切れた携帯端末の画面みたいに黒い瞳孔は縦に割れている。ぱっくりと。そうだ、これは人間の目ではない。人間の目は縦には開かない。おれは焦った。人間の目は、アンバーより黄色に寄ることはない。いわんやモンゴロイド。どう考えたっておかしい。おれは慄いた。目の前のこいつは、とにかく人間ではないのだ。
顔を伏せていた男は何事か小さくつぶやいた。聞こえた限りでは『strange……』と言ったようだった。外からまたあの馬鹿笑いが聞こえてきて、おれは一瞬だけためらってから窓枠に座る男を引きずり込んで背後の窓を閉めた。戻れない選択だと言うのは重々承知だ。しかし、ここは田舎だ。誰かに見咎められたとして、変な噂がおれの知らないネットワークを伝うだろう。それによっておれの立場がこれ以上悪くなったとしたらおれは本当に死ぬしかない。そう思って、引き込んだ。おれはぞっとした。軽い。”いくらなんでも軽すぎる”。まるで紙細工か何かのようだ。おれは重ねて恐怖を覚える。なにもかもが意味不明だ。それでもとにかくおれは窓を閉めた。窓を閉めておけば、これ以上ぞろぞろとわけのわからないものが入ってくることはない。あの煩い笑い声もだ。”軽い”男は底の見えない笑みのまま座っていた。金の目を光らせて。

「……あんた、なんなんだ」
おれは窓際に座っている男に声をかけた。人間じゃないその男は右耳にピアスをしていた。ラビアが一瞬脳をよぎり、おれは即座にそれを意識から消した。
「俺? おれか? なんだろうな。カミサマの気紛れってやつじゃないか?」
少し訛りのある喋り方で男は言った。どこの訛りかはおれにはわからない。とにかく、この辺の人間やおれの故郷の人間とは少し違う喋り方だった。なんというか、このあたりの人間とはイントネーションのつけ方の平坦さがあからさまに違う。ざっくり分けるとするなら、この辺の訛りよりは、いくらかおれの知っている(つまり俺の故郷の)喋り方に近いような気がした。気がしただけかもしれない。
「それで、なにしてたんだ? 普通の人間はもう寝る時間だろ? 外から明かりが見えたんだ」
「もしかしてそれを見て入ってきたのか?」
「そのとおりだ。ん、これはなんだ? 人間の……なんだ?」
「みなくていい」
おれはモニタに埃避けの布をかけた。画面に大写しにされているのは女の太腿だ。そんなことはどうだっていい。他人に見せるものじゃない。
「そうか?」
男は座り直すとポケットから薄い緑のフィルムのようなものを出し、くるくると指で丸めた。爪を見ておれはぎょっとした。女がするようにオーバル(卵型)へ整えられた爪はやすりで磨いたみたいにぴかぴか光っている。異様な光景だった。硬く長い爪は整えられているだけで何も塗られていないように見えた。そして指先。ぴかぴかの爪の先で巻かれたフィルムには放射状の筋が入っている。葉脈だ。それは何かの葉っぱだった。おれは、おれはそれを指の間から掠め取った。指先で弄んでいたものがなくなって、男はきょとんと呆けたような顔をした。
「なに? 欲しいの?」
「……おれの部屋は禁煙だ」
目をぱちぱちと瞬いて、驚いたような顔をしていた男は一変、火がついたように笑い出した。俺は努めて平静な態度を保った。狂人を相手にするときはペースに呑まれたらおしまいだ。
「あっはははは! 火は使わないよ。丸めて、咥えて、そのまま吸うんだ。あは、あははぁ……は。あ、人間には効かないぜ。や、どうかな。齧ると薬効がある、かな? あは」
返してくんない? と言うのでおれはしぶしぶそれを手の上に載せた。あまり見覚えのない丸い葉は双葉を出すタイプの草に似ていた。草だろうか。生憎おれは植物には詳しくない。洋酒ヤマゴボウとキョウチクトウが食えないことと、連作障害のことくらいしかわからない。ああ、あとは、丸い葉は規則性を持ってまばらにつく……つくんだったか? たしか葉のつきかたで奇蹄目と偶蹄目みたいな分類があったはずだ。いや、実際どうなんだ。昔、園芸をやっていた身としてはお粗末にもほどがある。おたんちん(ぐず)というわけだ。最悪だ、この言い方は悪意がある。
おれが考え事をしている間に、窓辺に座っていた男は丸めた葉をポケットへ元のようにおさめた。つ、とこちらを見る、金の瞳と目があう。
「それで?」
「”それで?” 何が言いたい?」
「これを欲しがるってことは」
男は目をぱちぱちと瞬き、さっき葉っぱを仕舞ったばかりのポケットをぱたぱたと叩いた。
「結構やばいんじゃないのか? ん? タイジョブ?」
ランタンのように光る丸い眼がおれを見る。頭を指して手を振るジェスチャーはやめてほしい。やめろ。答えがどっちだったにしろそれはおれに対する侮辱だ。やめろ。睨みつけていると、男は顔の前でぱっと手を広げ弁解するようにへらっと笑った。
「ははぁ、冗談さ。俺は天使だ。ミゲルって呼んでくれても構わないぜ、俺にはカミサマが付いている……」
おれは白目を剥いて無視をしてみせた。やってから、視界が潰れる恐怖に汗をかく羽目になった。おれは馬鹿だ。しかし幸運なことに、男は特に何もしてこなかった。
「あは、傷つくなあ」
そう言ってヘラヘラ肩を揺すっただけだった。

「明日も仕事だから早く寝たいんだが、おれの目の前におわす天使様は眠ってる頭蓋骨に”””啓示”””をくれたりするのか?」
時計を見れば夜は更け、男が窓から入ってきてからずいぶん時間が経っていた。おれは頭を両手で指差して”””啓示”””ともう一度言った。
「啓示って? 俺は何もしないよ。そもそも俺は人間じゃないわけだし、啓蒙活動とかにも興味はない」
「……眠ってる間に俺を殺さないならそれでいい。ああ、別に殺してくれても構わない。その時は一思いにやってくれ」
眠くなってきていた俺は随分と投げやりになっていたように思う。きょとんと目を見開いて、男は目を瞬いた。それが男の、驚いた時の癖らしかった。そしてやっぱり火がついたように笑い出した。
「あはは! 変なこと言うんだな! 死にたい理由でもあるのか? あっと、これ訊いていいやつ?」
面倒になったおれはゆるゆると首を横に振った。
「だめだ。おれは寝る」

男はベッドのすぐ横までついてきて、頬杖をつきながらにやにや話しかけてくる。眠いから寝ると言ったはずだった。しかしぱっくり割れたにやにや笑いが間近にあると思うと意識の方がなかなか消え去ってくれない。おれは少し苛々していた。何度も言うが、眠かったのだ。
「あはぁは、歌ってやろうか。子守唄は得意だぜ。安らぎと享楽は俺の専門だからな」
「……本当に、何しに来たんだ」
「気紛れさ。ああでもそうだな、家に置いてくれるっていうんなら、カミサマが俺に与え賜うた祝福を分けてやろう」
「ああもうそれでいい、それでいいから寝かせてくれ」
「オーケイ」
男は咳払いをして息を吸い込むと、起伏の無いグリッチミュージックを奏でだした。ブブブツツツツツツズッズズッズブブブツツツツチチチチチ…… 歌というにはあまりにもつまらない展開の仕方。が、思う以上に技巧派だった。おれはいつのまにか眠っていた。

翌朝おれは飛び起きて仕事に行った。男はだるそうな笑みをむけ、『イッテラッシャイ』と言った。
おれの仕事は【検閲】。【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】。

日が傾き、太陽光線がおれを焼き殺す時間におれは会社から放り出される。じりじりと焦がされながら、おれはとにかく家に帰った。家では男が待っていた。
「オカエリ」
相変わらず男は緑の葉をくるくると手元で弄っていた。ずっとそうしていたのだろうか。そうだとしたらうらやましい限りだ。
「……なにか食べるか?」
おれは男に向かって言った。なんとなく、聞くのが礼儀のような気がしたからだ。
「いいや? 俺はいらない。食べるものが違うんでね。人間の食べ物を食うと内臓が溶けるんだ」
アハハ、と男は笑う。
「……何を食うんだ?」
「そうだな、なにと言われると困るが。大人はさておき、俺たちのような生き物の子供は、肉を食う生き物の乳を吸って育つ」
トースターにパンを突っ込む手を止め、おれは男の方を見た。
「……たとえば?」
ふーむ、と軽い声を上げ、男は首を傾げて天井の方を見回した。
「人間とか」
訊かなきゃよかったかもな、とおれは思った。

人間じゃないものが人間の乳を吸って育つというのは、どうにも気持ちが悪い話だ。目の前の男の小さなころというものを想像し、おれは折角焼いたパンが喉を通らなくなった。赤子の姿をした知人が女の腕に抱かれ、乳房に吸い付いている姿を想像してどうして正気でいられる? 自分の子ではない赤ん坊を知ってか知らずか育てる女の内心について思いを寄せ、どうしてまともな精神状態でいられる。おれは齧りかけのトーストをカップの口に乗せ、机の端に追いやった。
「お前は、なんだ、人間に育てられたのか?」
「……話してもいいが、それ、本当に聞きたいのか? はは、顔が真っ青だぞ」
おれは顔をしかめて首を振った。男は『だよなあ』とだけ言って、それきり黙った。そうしてまたあの葉を指先でくるくると弄んでいた。

明日は休みだ。おれは会社で【検閲】を【検閲】。【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】。【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】。【検閲】。

帰ってきたとき、男は玄関に座り込んでいた。
「何してるんだ」
「ん? ああ……」
項垂れるように座り込む男は眠そうな視線をこちらに寄越し、口に咥えたものをぶっと広げた手に吐き出した。
「オカエリ。待ってたぜ」
首を回し、男は手の中のものを隠しにしまうと、肩にかかっていた毛皮を整えた。おれはただただ、『吸った』な、と思った。

「なんだ、疲れてんのか?」
「見ての通りだ」
「仕事は大変か?」
「わかってるなら聞くんじゃない」
鞄を投げ捨て、ジャケットを椅子の背にかけて、おれは冷蔵庫から出した食べかけのパンをレンジにかけた。卵豆腐を開けてカップのままフォークで掬って食う。美味い。男は思案顔でとつとつ机の天板を指で叩き、何を思いついたのかにたりと口を歪めた。
「特効薬持ってるけどどうだ? 精神疲労に効くやつだ。疲れてるんだろう?」
へら、と歯を見せ、男は上着の口に手をかけてぱっと左右に広げた(暗い口の中に見えた男の歯は妙に尖っていた)。ひし形に開くジャケットの前は、おれに女の股を想起させた。男はおれの手を取り、胸元へとみちびく。おれは手を払おうとした。しかし、手が胸に触れる方が早かった。

おれは目を見開いた。体を電流が流れるような心地がした。手の平から流れ込んでくるパルスは、電気風呂の中に突き落とされたより強くつよくおれを揺さぶる。全身が、背骨のなかが、びりびりと痺れた。男の体そのものが、なにか、未知の存在で出来ている。おれは直感し、震えた。それは恐怖か? 快感か?
「な? わかるだろ」
おれは”””わかって”””しまった。男の言うことが。おれは若干の罪悪感を抱きつつも、男の勧めるがままに体を暴いた。男の体には、人間の男にはない芳しい体臭があった。それは例えるならば陽光と風に晒したやわらかな毛布が一番近いだろうか。男は腕を広げ、毛布のようにぺしゃんこになっていた。
男とのそれは、気持ちが良かった。口がきけなくなった俺は何も言うことが出来ないまま、良いようにされていた。おれは暖かな毛布の上で腰砕けになってしまった。


終わったあとの呆けたような頭でおれは、レンジの中で今のおれと同じようにくたびれているであろうパンのことを思い出した。

翌朝迎えに行ったパンはレンジの庫内で曲がり、びしょびしょになって潰れていた。その様子があんまりにもおかしかったのでおれはちょっと笑ってしまった。男がおれを変な目で見るので、くしゃくしゃにふやけたパンを見せて説明したら、それを聞いた男は吹き出した。『お前にそっくりだ』というのでおれは『そこまでは似てねえよ』と言って、そのままおれと男はぐふぐふと笑った。曲がったパンが身体を折り曲げて笑う人のように見えたので、その旨を伝えると、また笑いが起きて、おれはパンと同じ体勢になるまで笑い続ける羽目になった。


始まりは、切っ掛けなんていうのは、些細なことだった。些細だったのか? とにかく今のおれは術中に嵌まったように男を求めている。何の術なのかは俺にはわからない。男が言った特効薬というのはあながち間違いでもなかったらしい。おれの体は、生活は、あの男なしでは成り立たないところまで来ている。悔しいことに。

「なにを……かんがえてんだ?」
寝ころんだ男は指先で丸めた葉を尖った歯できしきしと咬み潰していた。
「いいや、別に」
眇められる金の目は、何とも言えず濁っている。おれは男のジャケットに手をかけた。赤い上着のボタンを一つ一つ外す。このジャケットは皮だろうか。安くはなさそうな臙脂の上着には燻したような色の金ボタンが並んでいる。男は葉を咬み成すがまま、金の視線は自身の胸元を這うおれの指先を追っている。
「吸うか?」
男は興が乗ったようで、空いた口の隙間から、ふは、と息を吐き、噛み潰しているものと同じものを指で摘まんで差し出した。おれは首を振ってそれを拒んだ。
「結構だ」
男の酔いっぷりをみていると、ボタンも外せなくなるんじゃないかと恐ろしくなる。おれの返事に『そうか』と男は言い、しまうのも面倒だったのか葉を摘まんだままの腕を枕元へ放り出した。それは狂乱のうち、払い落とされたジャケットと共にどこへやら消えた。

おれは服を脱ぎ、身に着けていたものがすべて取り払われたままの男の腹を探った。いや、全てではない。男は肩にオレンジの毛皮を纏ったままだ。男はいついかなる時も、このママレード・ジャム・アイスクリーム色のこれを手放さない。変な男だと思う。おれは神経を尖らせ、感覚の特に敏いところでの男の腹を探る。内臓の温度は皮膚を伝っておれの肌へ、昂った神経へ届く。べろんと寝ころぶ男の腹の内側は、ぬるく湿っていてふわふわと温かく、時折ぐるぐるとうねる。芳しい体臭は変わらずおれへ””安らぎ””を植え付ける。麗しい肌きめもしかり。興味があるのかないのか、男は腹へ伏せるおれを一瞥して身動ぎ一つしない。ただ、呼吸に合わせて上下する胸と、うねる腹の中身だけが絶えず動いている。時折男は気紛れに、身体の上へ伏せるおれの頭や背や、とにかく手の届くところを手の先でなぞった。何度かに一度、オーバルの爪がおれの皮膚を引っ掻いて、おれの体に跡を残したようだった。

多分おれはああ、とか、うう、とか、そんなような声を出したのだろう。男の腹はとにかく滅茶苦茶に気持ちが良かった。浅ましくどうしようもなく。おれはその快楽に耽った。貪ると言うのはこういうことだろうと、おれはつくづく実感した。溺れていると言えばそれまでだが、とにかく強烈に気持ちが良い。気持ちが良いのだ。今は遠い、友人と交わす一本の煙草より、眠る前に齧るハーシーズよりも、程度をさらに強くして。男のもたらすそれが、なによりも胸の内の、臓腑の底の、脳髄の芯のクリティカルな部分を刺激し、絡め取っていくようで、おれはどうしようもなくなって精神の自由を、誰にも侵されることの無かった内心をやすやすと明け渡してしまったような気になる。それでもいいと思えてしまう。おれは腹に体を押しつける。肌に触れる柔らかく滑らかな感触は脳をとろかし、おれの理性をくしゃくしゃの紙くずみたいにしていく。堪らなくなったおれは体重をかけた。男が苦しそうに身悶えするのが見えた。男の口から丸められた葉が糸をひいて零れていくのが見えた。
それから先は記憶にない。

おれははっとして身を起こした。いつの間にか意識が飛んでいたようで、俺が目を覚ましたのを見ると男は顔を覗きこんできた。床には穴の開いた葉か落ちている。男の口には新しいものが咥えられていた。
「あ、起きた? あはっ、ほんとはさ、俺にこれあんま効かないんだよ。ははは、アー」
笑いながら男は咥えたそれをべっと手に吐いた。男の突飛な言動に、おれの寝起きの頭は少しばかり狼狽えた。効いていないと言うのは大方嘘だ。だってそうだろう。男の目は細められていて、口元の締まりは悪く、喋り方は輪をかけて胡乱だ。どう見たってラリッている。男は溶けたような視線を寄越し、口から不明瞭な笑いと『SsSsstTttRRRrrrrrrangggggggge』を吐き出すと、ぐにゃぐにゃと体を揺らめかせた。ぬるぬると不可解に動くそれは深い海に生える海藻に似て、骨が入っているのか見ているこっちが不安になるような揺れ方だった。
「あは。ほんとだよ、ほんとう……マジだって……」
右の耳にだけ開いたピアスを、髪を、ぴかぴかの長い爪で弾きながら男は夢見心地でおれに言う。本当におれに向かっていっているのだろうか。わからない。目と同じ金の輪が男の耳元で揺れ、暗い部屋にちかりと光を反射した。

床に落とされた赤のジャケットやぼんやりと座る男を眺めながら、おれはちょっと考えて尋ねた。
「お前が、その、天使だっていうのはマジなのか?」
男は躊躇いなく笑った。大仰に肩を揺するさまに、おれはすこし居心地が悪くなるのを感じた。それは、なんというか、そういう笑い方だった。
「ああ、なんだ、信じたのかァ? どうだろうな。俺のことを天使とあがめる人間はごまんといるが」
「……」
男は未だ笑っていた。言葉をなくしたおれは黙った。男の言葉は大嘘だと思っていたし、人間じゃないにしても天使ではありえないと思っていた。天使は人間に育てられることはない。それにこの男はどうにも悪魔めいている。おれはブディストなので、悪魔というものはフィクションにおけるそれしか知らない。天使。男の言うことを信じるのならば、この男を指してそう呼ぶ人間がいたらしい。俄かには信じがたい。男はそんなおれの内心を知ってか知らずか、『んん』と目を細め、丸い金の目でおれを覗き込んだ。
「考え事か? いいぜ、いろんなことを考えるのは悪いことじゃない。はは、アー……ンァ」
詰めたような声で『strange』と小さく言い、男は顔をしかめた。整った顔が綺麗なままぐにゃりとに歪められるのは、いっそ見事なまでだった。
「…………悪いが水を一杯くれるか? 実は俺、内臓疾患持ちでねえ……」
低い声に、なんとなくフカシじゃなさそうだと感じたので、おれはマグカップに水を汲んできて男に渡した。男は冷水を念入りに吹き、一口啜ってからおれを見ると、苦しそうな顔のまま大仰に肩をすくめて見せた。なますを吹くようなことをしたのが恥ずかしいならそう言えばいいのにと、おれはそう思った。

おれは静かになった部屋の中で男を何をするでもなくじっと見ていた。それで気がついたことだが、男は水を飲むのが下手だった。カップに口を付け、流し入れるのではなく、形容しがたい……舌で掬うというのが実情に近いだろうか? とにかくそんなような風に水を口へ運ぶ。男が人間の食べ物をとることをしないと言っていたのを思い出したおれの頭に浮かんだのは、人間のするような形の飲食というものに慣れていないのかもしれないな、というようなことだった。
「そういや、”””天使様”””も内臓疾患になるんだな」
おれは天使様の部分を殊更に強調して言った。男は水を飲みながら、なにを言っているんだとでも言いたげな顔でこちらを見返した。
「おれの仲間は時間経過によって姿が変わることはない。多少の変化はあってもな。人間みたいにあからさまに老いて行くことはない」男はそこで、はたと気が付いたように言葉を切った。
「言い忘れていた……というか知ってるものだと思って言わなかったが。おれはお前の目に若く見えるのかもしれないが、おれはこれでももうかなりの歳だ。よぼよぼの老体だ。平均年齢を考えるならとっくに死んでいてもおかしくないくらいのな」
おれは目を剥いた。男の外見は、人間で言えばまだまだ花の盛りだ。それがよぼよぼの老体という。男の仲間の平均年齢がいくつかは知らないが、その事実はおれを驚かせるに十分だ。この見た目で死にかけと言う。むしろ死ぬ直前までこの姿でいられるということの方が驚きかもしれない。
「変な顔をしているな。気が付いていなかったんだな?」
「…………それは、いや……驚いた」
男はいつもの、何が面白いんだと問いたくなるような笑い方でぎゃはぎゃはと下品に笑った。ぐふぐふと低音で響くけたたましい笑い声がおれの鼓膜をなぐりつけた。
「半分くらいの人間はそう言うよ。たまにおれの歳を当てるやつもいるがね。そういう人間とそうでない人間が一緒にいると面白いぜ。隣同士で並んでいるのに言うことがまるっきり違う」
おれはなにも言う気がなくなって、ただただ呆然としていた。それからずっと、男がなにか下らないことを言うのを呆けたように聞いていた。夜は更ける。朝が来なければいいとおれは思う。

【検閲】【検閲】【検閲】

男は組んでいる長い足を解き、おれの要求を受け入れる。すらっとした長い足が絡むのを、男はおれの要求を受け入れるがために解くのだ。

明るいオレンジの毛皮の内側に招かれ、おれは今日も享楽のしもべたる男と遊ぶ。朗らかなママレード・ジャム・アイスクリームカラーの被服。男の纏う毛皮は本物だ。どうやら染色でもないらしい。訊けば、不自然に明るい色彩は全くの天然もので、男いわく『人気者の証だぜ』とのことだ。いや、本当にそうだっただろうか? とにかく、男はそんなようなことを言っていた。おれはこれまでファーと言えばアクリルのものばかり触っていたので、男の携える”本物の”毛皮にはやや面食らった。男がそれを肩にかけて動くと、まるでそれ自体が生きているかのようにしなやかに追従する。ぬるぬると動くそれは空中を滑らかに泳いでいるようにも見える。服と言うにはいささか不可思議な挙動だった。男の言うところによると、男の同族たちは皆生まれた時に、出生の誉として一人一着ずつを『カミサマ』から賜るのだそうだ。もらう衣装には家紋が巧妙に入れられ、近親者の間でどの家の生まれかがわかるようになっているのだそうだ。男の話は胡散臭く誇張に塗れどこまで本当だか聞いているこっちにはまるでわからないが、そう言った男が大事そうに襟元のファーを撫でるのでおれはそれ以上を口にしなかった。

そう言えば、男は時々何の脈絡もなく『strange』と口にする。どうも口癖らしい。

【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】

「ははぁ。妙、妙、妙だ」
男は近頃、時折窓の方をじいっと見ていることが増えた。なにがと問おうも、男は返事をしない。ただ、妙と口にするだけだ。
揺れるカーテンを、透明な窓を、流れる雲を、通り過ぎる雷鳴を。男は見ている。ただ、一言、『strange』と口にして。

【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】【検閲】

ある夜のことだ。男は唐突に立ち上がり、窓を開けた。窓の外には、月が出ていたような気がする。金貨の月。暗い夜。男は開けた窓の前、月を背にして振り返った。逆光で朧になった表情の中、開いた口には尖った歯が並ぶ。くろくぼやけたシルエットの中、右の耳の片ピアスがちかちかと月光を反射して瞬くのに、おれは目を奪われた。それはきっと、男の目と、月と、ピアスとが、全く同じ色していたからだ。
「忘れるなよ、お前には俺が必要だ。しかし俺はもう行かねばならない」
それは急で、一方的な宣告だった。囁き、肩に手をかける彼の湿った鼻先は耳をくすぐり、夜毎のそれを思い起こさせる。触ろうとすれば手を払い、手の甲に爪を立てられた。にやりと目の前で顔が歪む。ぎらぎらと光る金の眼に、黒い瞳孔がばっくりと口を開けた。光っている月の中心から宵闇が覗いたような、不安な気持ちが俺の心を支配したのは言うまでもない。人間ではないのだと、ここにきてはっきりと思い知らされるような、そんな表情だった。
「俺はもう行かねばならない。盟友よ、命があればまた会おう」
尖った牙に磨かれたぴかぴかのネイル。しなやかな手足、いつでもきちんと整った身なり。美しい顔を殊更に、人間の持ちうる表情の中でも最も美しい形に歪め、男は出て行った。窓を乗り越えて、夜の闇に溶けた。
開いたままの窓から俺が身を乗り出すと、そこには真っ暗な夜の闇が広がっていた。夜風は不安をあおり、闇は海水のように果てがない。『待ってくれ』とあげようとした声は、どこからか聞こえてきた誰とも知れない甲高い笑い声に遮られた。ここはおれが憎んで止まないクソ田舎で、今夜の笑い声はそれをおれに否応なく思い出させた。思い出してしまったおれは声も出せず反射的に身を竦ませた。そして、それはこれっきりそのままになってしまった。

おれはそうして、享楽を、かりそめの安らぎを失った。何もかも白昼夢じみている。男がいなくなっても世界は変わらず回り続けている。自分の記憶が信じられなくなっていたおれは、オレンジの毛皮を纏い金の目を持つ男と入れ替わりにやってきた呆然自失と懇意になった。呆然自失と寄り添って過ごす日々は穏やかだった。そんな時間がどれ程続いただろう。それは一日の事だったかもしれないし、もっと気の遠くなるような長い時間だったのかもしれない。現実の時間が意味をなさなくなるような引き伸ばされた時間感覚の中、寝床の隙間から丸い緑の、見慣れたあの葉っぱが見つかったことで、おれはあの日々が夢じゃなかったのだと知る。それは一条の明光であったに違いない。呆然自失の隣から立ち上がって、おれは見つけたそれを齧ってみた。しなびかけた葉は柔らかい。暫しそのままで待つ。一分二分。三分、十分。男の言うとおり、その行為によっておれの体や意識に変化が訪れることはなかった。おれはそれを効かないと知っているはずなのに執拗に勧めてくる男の姿を思い出し思わず笑った。ひとしきり笑うと、おれはそれをジップつきのビニールバックへ入れた。なんだか少し楽しくなって、おれは久しく歌っていなかった洋楽なんかを歌ってみたりした。

おれはいまだこのむかつくようなクソクソクソド田舎で暮らしている。男は消えた。仕事は相変わらず厄介で、外は排ガス臭く、雷鳴のシンフォニーと殺人太陽光線は俺を焼き殺そうと今でも狙ってくる。しかし、しかしだ。おれの手の中にあるこの丸い葉は、記憶の中にある男の姿は、その鬱屈を、痛みを、少しは和らげてくれるような気がするのだ。たとえそれが気のせいだとしても、おれはもう少し生きていてもいいんじゃないかと、そう思えるようになった感覚を、信じてみたいと感じるのだ。


『strange-orange』(その男はミョウと呼ばわる)

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