拍手の聞こえない世界
ちょっとでも感じたことをなるべく文字に起こそうと思っています。
私が小さいころに夢見ていたことは
女優さんになること、ピアニストになること、ヒーローになること、先生になること、声優さんになること、監督になること、
全部全部、舞台が必要なことばかりだった。
小さいころからピアノやダンスの発表会などで、たくさんの人から拍手をもらうことが当たり前で、これから先も、どんな思いをしても人の前に立ってたくさんの重厚な拍手をもらいたかったんだと思う。
その拍手の音量がもっともっとほしくて、将来はとんでもなく大きいホールを作って、そこをいっぱいにして、満員のお客さんの手が痛くなるほどの大きな大きな拍手がほしかった。
私が大人になった今、たくさんの方法で自己表現ができるようになった。
ツイッターで作品を発表することもできれば、インスタグラムで日々の日常さえ「理想の生活」というステータスとして公開できる。
まるで生きてるだけで、スマホさえあれば誰だって有名人になれるし誰だってスターになれる時代になった。
VR空間で顔を出さなくてもライブができたり、「舞台」がたくさんできてきた。
今までのアーティストの悩みは、「舞台」がないことだったと思う。手配するお金がないため、才能もあるし聞きたい見たいというお客さんがいるのに場所がなかったり、そもそも自分が作曲してとんでもなくいい作品ができたとしても、発表する場がなかった。
いま数々の芸能人、アーティストを抱えている大手事務所も、まず最初にライブハウスを作って、所属したらただで「舞台」を使わせて、発展していったと聞いた。
すごくすごくいい方向で世の中が進んでいて、新しいジャンルや新しいアートもこれからたくさん生まれてくると思う。
でも、拍手はどうだろう。
デジタル空間の舞台は拍手が聞こえない。
もっと言えば評論家がいない。世の中に「感想」が不足しすぎている気がする。
ものすごく個人的な意見なので聞き流してほしい。
ある写真家さんに「かわいい、えろい」しか感想がなくて撮られることに意味を感じなくなってしまった。と相談したところ
人間の感想を伝える能力というのは、本当に不足していて、せいぜい三文字くらいしか言えないような人も多いから、期待しないことがいい。
と答えてくれた。
感想は期待しない、あきらめろと言っていたのに、その写真家さんは、たくさんの解説本(写真の撮り方)を出している。
芸術をやるうえで、自分で創作したものを、
「何処を工夫しました。どこを見てください。これを描写しています。」
なんてことを自分自身でかくのは小学校の工作の作品までで辞めたい。小学校のころでさえ書くのが嫌で書かないで提出したらよく怒られた。しまいには工夫してないの?などと言われたり何を考えて作ったの?この色はこっちのほうがいいね。なんていわれたりして、耐えられなかったことがあった。
できれば語りたくない。もっと自由な目で観察して、もっととらわれないで自由な感想がほしい。
と思っているはずなのに、あまりにも薄い表面だけの、三文字か四文字の感想があふれるので解説本を出さざるをえないことになってきている。
その三文字か四文字の感想が、数字のようにどんどん足し算されて、やがて大きな評価になるなら我慢できるかもしれないけど、むしろマイナスで来れば来るほどモチベーションは下がっていく。
コメント欄に量産されていく、そんな数字にもなることができない、身だしなみも整っていない日本語をみて、これが私のほしかった拍手だったのか。と思うととてもとても悲しくなる。
発展とともに、人間たちも成長していかなければいけないということを、もう一度考えてほしい。
けして敷居が下がったわけではなく、作品のレベルが下がったわけでもなく(アーティストの)舞台が増えただけということだと思ってほしい。
本気で作っている作品に対して、きれいな服を着て、髪の毛も整えて、しっかり心の目で鑑賞して
大きな大きな拍手を送ってほしい。
評論家もいない、拍手も聞こえない世界では、きっともっとステージマナーは厳しいのかもしれない。
拍手が音だけではなく、いろんなかたちで、いろんな喜びがあふれるようになればと願っています。
もし心を動かされた方がいましたら、少しでもサポートいただけるととても嬉しいです。これからもたくさん作品を生んでいきます。