見出し画像

募金詐欺と鴉神話

先日、あるターミナル駅付近をぶらついていると、外国人のお姉さんに声をかけられた。恐らくアジア系、もしやフィリピン系の彼女は、めぐまれないこどもたちへ、と署名と募金を募っていた。

募金が、良いことをしたという感覚が、自己肯定感を高めてくれる、そのライフハックは知っている。一方で、街中の募金はどうにも怪しい。詐欺まがいのことがあると聞く。証明書を見せてくれませんか、と日本語の拙い彼女に伝えた。確かに団体の住所とか記載された、何かしらの証書を見せてもらえた。しかしまあ、なんか怪しい。

団体をネットで調べよう。そう思い、団体の名前をうかがった。QRコードを差し出された。

画像1

QRコードから飛んだHPはきちんとしたものだった。しかしいまいち詳細が掴めない。彼女の目を盗んで、QRコードではなく、普通にネット検索をした。ヒットした。……あれ、詐欺っぽいな?

彼女はその記事を見ると、「あ、この団体、知ってる」と。「でもこれ、5年前。もうclosedした」と。そして未だ怪訝そうな顔をする私に、こう言った。

「そのサイトと、私と、どっちを信じるの?」


結局、「ちゃんと裏を取れたら募金しますね」とだけ言って、立ち去ることにした。穏便だったし、その後は知らない。ただ、Twitterで確認する限り、やっぱり疑わしい団体だということと、それを確認してもなお妙な申し訳なさを感じたことと、そのターミナル駅付近の別の場所で、同じような声掛けをまた見たくらいだ。

ケーキを食べるか音ゲーをするか家に帰るか、その選択を迫られていた(?)私は、それ以上には引っかからなかった。しかし決断に迷う中、人にアドバイスを求める中で、ふと思い出してしまったのだ。

「そのサイトと、私と、どっちを信じるの?」


就活に悩んでいる。

2つとっている内定先の、どちらにするか。

就活を続けて、もっと条件の良い先や、親のきちんと納得してくれる先を探すか。今の内定先で決めて「それが天職だった」と思えることや、思えなくても転職で未来を良くすることを信じるか。

そもそも内定を蹴り、浪人をするか。教育心理の院を受けるべきだったという思いがある。ソシャゲのライターであれ出版社であれ、もっと「ものを書く」にコミットしたところを受けておけば、という思いもある。その思いに応えた方が、後悔しない選択なのか。

安楽な道を行くか、厳しい茨の道を行くか。

今までと風景のさほど変わらない道を選ぶか、大きく自分を成長させてくれる新しい道に飛び込むか。

「好きだ」と思える道を選ぶか、「これを選ばなかったら後悔する」という道を選ぶか。

人は言う。

同じような学歴の人が多いところがいい。大企業がいい。実家近くに勤務先がある方がいい。今まで通りのところがいい。(私が)納得できるところに早く落ち着いてほしい、旅行の話をしたいから。

やりたいことに素直になった方がいい。まだ取り返しがつく、王道ルートを外れたって、ストレートに進まなくたって、そう簡単に人生は終わらないから。

いつかしなければならない選択を、先延ばしにしない方がいい。決めなければ、やるべきことをやらなければ、しんどいのがずっと続くし、良い選択をしようとして悩んで悩んで時間切れが、いちばん後悔する道だから。今ある手持ちのカードで決めて、どんどん動いていくしか拓けない。

受諾してしまったら腹括って飛び込むしかないけど、そこまではきちんと悩んで決めた方がいい。「アルバイト先だから行きたくない」は充分に理由になるし、普通は3月4月から、もっと言えば去年の夏から、民間就活して悩んで選んで内定式にいるところを、たったここ数週間で決めろというのは無茶な話だ。

新しい環境に飛び込んだ方がいい。今までの自分に悔いがあるなら、今の自分を肯定できないなら、新しい環境、新しい自分に出会えそうなところへ。社会人として社会に触れて、様々な経験を積む中で、見えてくるものもあるはずだから。

「できること」で決めた方がいい。さして努力しなくても人よりできることを、仕事に。生活の糧なのだから。

「やりたいこと」で決めるべきだ。どうせ1日の1/3、ここから40年以上、働かなければならないのは変わらない。だからせめて自分が興味を持てることを。

「誰を、どうやって、喜ばせたいか」「どの分野で世界を良くしたいか」で考えるべきだ。ビジネスとは誰かを幸せにする、それで回るものだから。


……私は。誰を。どれを。何を。信じればいい?


「自分の言葉を信じ歩けばいいの」

でも、自分の言葉がもう、私の中で錯綜している。

「試されてまでもここにいることを決めたのに」

そうとすら言えない選択の先に、澱んだ景色しか見えない気がして。

「やりたいものやったもん勝ち 青春なら」

………………。


もし正解を完璧に予測できるAIがあったなら。恐らく選択を任せてしまうだろう。……それでも演算が出た先に、果たしてそれに従うか? 演算に従うか否か、その選択は結局は私がする。選択の責任は、結局は私が取らざるを得ない。

店を選ぶ時、メニューを選ぶ時。どうしても食べログに頼ってしまう。でもその中にサクラがいないだなんて確証はない。

友人の不祥事がSNSで拡散されていたなら。当人が否定していたとして、私はその友人の言うことをちゃんと信じていられるか? ネットとその人と、私は、どっちを信じる?

そもそも、学問とは。情報が玉石混交に濁り合う中で、比較し、考え、自分が信じるものを、自分にとっての「正解」を、自分で選び取るためのものではなかったか?

「正解のない問い」は、考えることだけでは、話し合うだけでは、終わらない。最善かどうかわからない答えを、選び取り、その結果を引き受ける。「これがおれの答えや!」と胸を張るために、学んできたとしたならば、私は。


20年前に生まれていたなら。

弊大学に進んでいたなら。

私はきっとカルト宗教に、呑まれていたことだろう。……そこですらなにかに貢献できていたか、承認されていたかどうか。

私は令和に生きている。カルト宗教のやばさも知っている。それでもなお、精神的に免疫力が下がっていって、言葉ごとにメンタルが乱高下して振り回されて、もういっそ何かを狂信して溺れて全てを委ねたい自分を自覚している。どんなに頭で考えたって悩んだって、「飛び込まないと」進路なんて決まらないとも言われて。

誰かを、誰かの言葉を、盲信して狂信して精神を揺らして否定して距離をとって、そんなことを繰り返して疲弊して糸が切れて、それでも切りきれることなんてなくて、喫茶で美味しいものを食べて日光を浴びて、相変わらずやるべきことはなくならないので、やっぱり手を動かして、決断を先延ばしにしているのか、きちんと心が定まるまで選択してはいけないと思っているのか、それは、不合理な呪いなのか?


助けてくれ、と伸ばした先に、誰の言葉を信じればいい?

その言葉の先にカルトが口をぽっかりとあけていませんか? 地獄への道を舗装してはいませんか?

どうしてあなたの言葉を聞かなくてはいけないのですか?

誰より誰より自分に厳しいのは、誰より誰より自分を許せないのは、誰より誰より自分が死ぬべきだというのは、たぶん私なのでしょうね。

誰かの言葉を信じたくとも、誰かの言葉が私利私欲なく純粋に「私のため」からのもので、おまけに絶対的に正しいと盲信できるほど、誰かの言葉に身を委ねきれるほど、狂気にも落ちてはいないし、

自分の言葉を信じたくとも、その言葉は一意に定まらなくて、たぶんもう飛び込むしかないと分かっている。

ねぇ、助けて。……どうやって?


もしあの駅で会ったお姉さんに、1000円でも渡していたなら。

そのお金は、めぐまれないこどもたちに届いていたのか。

それとも彼女のお小遣いになっていたのか。彼女もまた「恵まれない」なら、自販機の水に消えたかもしれないその1000円は、果たして詐欺だったのだろうか。

記事を見せてまで詰め寄っても堂々と揺らがないでいた彼女は、今日はどこで、どんな空を見上げているのだろう。

渡さなかった、この選択の先に、反社会的集団には、流れなかったと信じていたい。そう思いながら心のために、その1000円をカフェで出す。正しいかは誰も知らないが、少なくとも適度な糖分と熱量は心に良いと、信じていいものだと思って。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?