リアルなファンタジー

私がクイーンを好きになっていったのは学生の頃。
アルバムで言えば「A Kind Of Magic」と「The Miracle」の間くらいで、おそらくフレディが「もうツアーには出ない」と言い出した時期なので、どんなに望んでももうクイーンのライブを観るのは不可能だった頃。

ライブ・エイドの頃はまだ自分は幼く、洋楽を聴き始めた時期で、おそらく私の住んでいる地方では生中継の放送も無く開催自体も知らず、クイーンの名前は知ってるけど曲がどれなのかはわからず、ほぼ後追いと言ってもよい世代だろう。
学校内でクイーンを知っている人も「ああ、あのヒゲのいるバンド」程度で、ただ一人だけお姉さんの影響で知ってるし好きだという子がいたくらい。

80年代後半の日本では、失礼ながらお世辞にもクイーンは売れていたとは言えず、ネットはもちろん無く、10代の子供には情報を手に入れる方法もわからず、とにかく洋楽雑誌が発売される度にくまなく読んでQの字を探していた。
今思えば当時の自分にもう少し行動力があれば、例えばもっと広い場所でファン同士を探して世界を広げることもできたのに、実際にそうしたのはフレディが亡くなった後でだった。

それでもアルバム「The Miracle」の発売前になると少しずつ雑誌に情報が掲載されるようになり、当時はいつテレビで放送されるかわからないビデオクリップ(当時はそう呼んでいた)も運が良ければ録画できた。
私が初めてリアルタイムで体験したアルバムがその「The Miracle」。
次の「Innuendo」の衝撃があまりにも強いので取り上げられることが少ないアルバムに思えるが、今でも「Innuendo」と並ぶくらい大好きな一枚。
内容についての感想は長くなるのでここでは書かない。


その後雑誌で「すでに次のアルバム制作に入っている」と知り、当時は「ミラクルがあまりにも良い内容だから勢いでスタジオ入っちゃったのかな」とご陽気に思い込んでいた。
そしてまだ日本でのアルバム発売前、深夜の音楽番組で"Innuendo"のクリップを録画し初めて見た時、言葉でどう表してよいかわからないふわふわとした違和感があった。


それまでの、フレディの口癖にもある「詞に意味など無い・使い捨て(という名の共有)」という一貫した姿勢。
歌詞や音を受け取った人々が、自分の世界と照らして、いかようにも解釈できるような作品をみんなに届けてくれる、それがクイーン。

私が大好きな理由がそこにある。
でもこの曲は、何か今までと違う…

フレディが文字通りに生命をこめて仲間と作り上げた作品なのだから密度がそれまでとは違うのは当然だが、タイトルすら「INNUENDO (意味:暗示、風刺、あてこすり)」と、何か告げたいことがあるとしか考えられない。(でもそれに気づくのは彼が去った後の話)

後にある音楽評論家の方が「このアルバムはスピルバーグが『シンドラーのリスト』を世に出した時と同じ衝撃」と表現しており、幼い私はあまり意味をわかっていなかったが、今ならわかる。

このアルバムが発売されると『初期の頃の密度と力量が戻ってきた』との高評価で各雑誌等で取り上げられると共に、情報網のあまりない私にも届くくらいに、フレディの体調についての記事も見かけるようになった。
それまでもメディアがフレディの性的指向や他メンバーのゴシップを扱い、笑えない程までに書いた記事を時々見かけたので、またいつもの噂だとは思ってもすみっこの方ではちらちら不安は消えなかった。


「これを続けられるのは、笑い者になることを気に入っているから」

フレディは自らの美意識を自信を持って愛していただろうし、たとえ他者から笑われると分かっていても、その嘲笑をも掴み自らの美意識で包み込んでファンタジーに変換できる人間だったように思う。
だから受け手である私達は何を気にする事も無く、彼の表現を見て聴いて楽しんで笑えたのに。

この時期の彼の体調に関する記事を読むと、笑い飛ばしたい気持ちと一緒にひどくリアルな予感がやって来るので、どうしたら良いかわからなかった。

'91年11月23日、フレディは声明を発表し、翌日に死去。
自分がどうしていたかこのあたりの流れをはっきり記憶していないのは、たぶんあまりにショックだったからかもしれない。
23日24日が祝日(土曜)と日曜でしかも時差があり、声明発表を新聞で読んだその後まもなく「死去」のニュースをテレビで知ったように記憶している。

週が明け、学校でただ一人クイーンの話が通じる友達とはクラスも別で、どちらともなく会いに行き「何がどうなってるのか」を、二人の間でははあまりの事の大きさに、騒ぐこともできずにただ落ち着きたくてぼそぼそと話した。

日本のメディアがこんな時だけ大々的に取り上げたおかげで、日頃学校でクイーンが好きだという話を周りにもあまりしない私を、めざとく見つけ出すつまらない人間が、わざわざ寄ってきては余計な事を言いに来たりもした。
感情的な振りで止めることもできた気もするが、もうその気力も無い。
ラジオも聞いたとは思うが内容は思い出せない。
とにかく何か書いてないかと音楽雑誌を読んだ。
私の読んだ中では批判的な内容は少しだけで、他は追悼記事や特集が掲載されていた。

(今でも残している追悼記事の切り抜きや、特集が組まれた音楽誌)

翌年4月にイギリス ウェンブリー・スタジアムで開催された追悼コンサートも、10代にはあまりにも遠い国の話だったが、彼の死後すぐに自分の中で湧き出した悔しさが勢いとなり、'70年代からのリアルタイムなファンの方々と繋がることができた。
実際にウェンブリーまで観に行った方の話を聞いたり、当時WOWOWにて放送されたこのコンサートの模様を録画したVHSを送って頂き見ることもできた。
他にも、ミュージックライフのバックナンバーや昔FMで放送されたインタビュー音源が録音されたカセットテープを貸してもらったり、過去を遡ることが楽しくて仕方なかった。



繋がりができたり、ネットの世界がどんどん進化したおかげで、メンバーのソロ活動やライブ、ミュージカルの情報などリアルタイムでついていくことができ、これ以降は様々なイベントを観に行けた。
ただそれはあくまで、現在のメンバーやスタッフの継続への意欲があってのことだと思わずにはいられない。

ジョンのように「フレディのいない芸能界を続ける意味はない」と普通の生活に戻ることが彼にとってどれだけ大事なことなのかもわかるし、あの時点で他の二人が「クイーンを解散する」と決意しても誰も止める権利は無かったと思えるからだ。

そして今回の映画「ボヘミアン・ラプソディ」。
公開に至るまでにこれでもかとトラブル続き、更に撮影途中での監督交代などがあり、正直に言うと「完成しました!」「上映決定しました!」と発表されただけでも、良くやったなあという気持ちだった。

上映初日に観た。
終わって映画館を出てもなにか呆然とし、ぐるぐると街中を歩き回っていた。
印象的なエビソードは事実に基づいてはいるけれど時代の順序は明らかに違う。
フレディも似ているけれど、あれは自分の思うフレディとは何か違う。
頂点に立ち、重圧と偏見に苦しみ、絶望に陥り、また自分を取り戻す、言葉は悪いが表現者を描く話ではよくある進め方だと思う。
なのにどうして、こんなに胸を掴まれて何も考えられなくなるのか。

「才能とはいかに一般大衆の口にそれを突っ込んで飲み下させるかの方法を知ってるということ」

映画の中でのフレディは「時々君は本当にクズになる」し、部屋のスタンドをつけたり消したりと子供が母親に甘えているような行為をしてみたり、(余談だがブライアンは過去のインタビューでフレディについて「クズみたいな時期があった」との発言している)、”We Will Rock You” のレコーディング時に髭を生やしていたり。
こんなに一目でわかる史実との違いですら、このストーリーの中では「違う」と思った次の瞬間にライブが始まりそのまま連れて行かれる。
史実と各場面でのエピソードとメンバーのキャラと、何よりも曲。
それを見事に入れ替えてパズルのように組み合わせ、一気にあのラスト20分のカタルシスに突入させる。

ところで、ブライアンもロジャーもインタビューなどで「フレディは強くて弱いところを見せたことはなかった」と、口ぐせのようにこの発言をしている。
私が思っているフレディの姿も、舞台の上で気高く立っているあの彼だ。
もちろん本当にそうだったのだろうが、個人的な考えを言うと、もしかしたら二人は少しでも良いから弱音を吐いてほしかったと感じているのでないか、などどふと勝手に推測してしまう時がある。

決して未来を、結果を変えることはできなくても、それまでの間に何か助けられることがあったはずだと、おそらく周りの人々がずっと感じている後悔と彼への愛情がこの映画には含まれているように見えた。
その代わりではないだろうが、二人はあれからずっとフレディを退屈させないようにと愛の文字が書かれた公開状を送っている。

何度か回を重ねて映画を観るうちに(現在4回目)、これはブライアンとロジャー公認の「壮大な二次創作」だと思え、どんどん楽しくなっている。
二次創作は対象への愛情が重なりすぎてあふれた結果の表現となったものだが、これほど大規模に多くの人を巻き込んで楽しませてくれる、生々しい二次創作のファンタジーを多分私は観たことがない。

次の5回目も既に席を取っている、爆音上映、もうワクワクしている。
'91年から毎年1度は必ずやってくるクイーンファンにとっては祈りの月。
なのに、こんなにうるさくて楽しくて、静かにしていられない11月があっただろうか。
つらくても生き続けていればいろんなものが見れるんだなあ、と思う。


……などと書いてきたこの文章も、
「君がどう感じようが好きにして良いんだよ。まあ、ただちょっと長くない?飽きちゃった」
とフレディから言われる気がしている。

おそらくこれからも、博士がツイッターやIGなどのSNSを駆使して、無邪気な報告をしたり時には深刻な社会問題を取り上げる度、海の向こうの日本にいる私達は時差を計算しては「#ブライアン寝ろ」(博士はド深夜に連投するのが常)と心配するだろう。
ロジャーがたまに短文と共に、メンバーとの古い写真やちょうイケメンな自分を家族が撮影した画像を上げる度に、「絶対こっちのツボわかって写真選んでるよなー知らん顔してなー」と降参してしまう。

ジョンについては「便りが無いのが良い便り」で何事もなく暮らしてくれればそれで良いし、おそらくこの映画には目を通していると思う。(ちなみにジョンの末っ子くんは観たらしい画像をSNSで上げている)
何より、様々な批評を通り抜けて継続を選んでくれたあの二人に感謝せずにはいられない。

スマホやPCを眺めてうふふとなるこんなに小さいことから、今回のような大規模なブームを巻き起こす程の映画や、もちろん何枚ものアルバムやライブ作品を遡ることで、クイーンをこれから知る人たちが増えていくんだなあと考えたら、子供の頃に同じ立場だった自分も、ほんとうに楽しくて嬉しいことだと感じている。

(最後にツイッターにてこのアカウントをフォロー頂けている方へ。
私が数年前にツイッター上でこのフレディbotなるアカウントを作成したのも、本当にただの勢いからで特に大きな意味などない事、今回の映画からのブームによりフォロワーの方が500人も増えた事、中の人としては嬉しいのは勿論ですが、ある理由で放置状態になる期間が時々ある事をとりあえずお知らせします。リンク訂正も当分追いつきません、あしからず。

気軽に使い捨てて、ブロック・リムーブしてくれ、ダーリン。)