Tracker side 高井慎一郎

西新宿の外れ、雑居ビルの5階。

 鉄製ドアに貼られた小ぶりの看板には、控えめな指定のフォントと文字サイズで「東京都公安委員会30xxxxxxx号」という登録番号と、「セビリア探偵社」という社名が記されている。現在の社長は高井 慎一郎、30歳。但し社員は自分一人だけである。場所柄にも、業種にもおよそ似合わなさそうな社名は、前の社長が付けたものである。亡くなった奥さんが口癖のように言っていた「死ぬまでにセビリアに行ってフラメンコを見てみたい」という夢を、ついに叶えてやれなかった男が、退職後の第二の人生を送る職場の名前として選んだものであった。 

 前社長は高井の父の友人で、高井も子供の頃から警察のおじちゃんと呼んで懐いていた。 優柔不断な性格が災いしてか、社会人になってからも会社を転々とする高井のことを気にかけてくれ、自分の跡を継がないかと声をかけてくれたのであった。

 最初はあまり気乗りしなかったのだが、一人で気ままに仕事ができることは意外にも快適で、収入が多少不安定なことに目をつぶれば、自分の天職に出会えたようにさえ思い始めていた。顧客はどういう訳か風俗嬢が多い。依頼の殆どがストーカー調査や、お客の身辺調査など。 先月までは調査依頼はそこそこ有った。

 ところが、もうすぐクリスマスだというのに、今月は客が一人も来なかった。こんなこともあるのだろうと諦めていた矢先、若い女性が一人で訪ねてきた。 名前は平下美穂といった。場所に不似合いなほど大人しい感じである。しかし、依頼内容はこの辺りでは良く耳にすることであった。 

 彼女の話を要約すると、ホストのリョウヘイに入れあげてしまい、借金までして貢いでしまった。店で使った分はしょうがないが、同伴やアフターの際に「相談」と称して、辞めた後輩ホストが回収できずになっている未収売掛の支払いを助けてあげた分や、車の買い替え、マンションの住み替えなど、何だかんだと有ったので、計算すると百万円以上になっている。それを返してもらえないかという、何とも困った相談である。そりゃ誰にも取り合ってもらえないだろうし、探偵とて、法律で定められた調査業務の範囲がある。本来貸した金の返済の交渉などは弁護士でないとできないのであるが、“対象が何を考えているのかの把握”に当たる“心情調査“に該当するか…ということにして依頼を受けた。

返してもらえるなどと甘い期待は持たなかったが、何がしか取り戻せた暁には一部を成功報酬としていただける契約とした。

(ダメでも光熱費の足しくらいにはなるかな…それと、自己破産手続き用に司法書士でも紹介するか)

高井は、その日のうちにリョウヘイの調査に取り掛かった。12時きっかりの閉店から30分後、店から出てきたリョウヘイはアフターも無いのか、新宿駅まで歩いて行った。タクシーに乗られて、遠くまで帰られると経費がかかると心配したが、助かった。悟られないように後を付け、神奈川まで伸びていく私鉄の3駅目で一緒に降りた。彼は途中コンビニで何か夜食のようなものを買い込み、まっすぐにマンションまで歩いた。エレベーターに乗り込むのを見届けて、降りる階数を確認した。それからもう一度外にでて、電気が点いた部屋を確認して、今日はそこまでにした。昨今は夜中にゴソゴソしているとすぐ住民に通報されてしまうからである。それとオートロックの玄関でなかったことも助かった。

 翌日の昼間、折り込みチラシの投げ込みを装って、マンションの中を少し調べてみた。表札は無かったが、ポストに入っている郵便物を何とか覗き見して、本名も確認できた。

念のため、マンションの駐車場に置いてある、品川ナンバーの外車と世田谷、杉並ナンバーのスポーツタイプの車のナンバーを控え、業界仲間に所有者を調べて貰った。リョウヘイ本人名義のものは一台だけだったが、残りは怪しげな法人名義だったので「飛ばしナンバー」か若しくは上客の会社名義なのだろう。それはおいおいカマをかけて確認することにした。

 一度出直して、夕方出勤のためにマンションから出てくるリョウヘイを待ち伏せた。

4時少し前に出てきた彼は鼻歌まじりでご機嫌な様子である。駅の近くまで来たところで近づいて、後ろから彼の本名で呼びかけた。驚いて振り返った彼に高井は更に畳みかけた。

「それともリョウヘイさんと呼んだ方がいいですか?」

不意を突かれ、目をむいてこちらの風体をジロジロと見ている。あまり警戒させてはいけないので、こちらも名乗った。

「突然スミマセン。わたし、民間の調査会社の高井と申します」

「警察でもやくざでもないです」

「ハァア…」

溜息とも返事とも区別のつかない声だ。

「出勤前の忙しい時間に申し訳ないですが、10分ほどお時間いただけませんか?」

と言って、近くのカフェを指さした。リョウヘイはまだ何のことやら分からない。

「平下…美穂さんのことなんですが」

一瞬、客の名前を思い返してみたのだろうか、目をそらした後思い出したように

「ああ、美穂さんね」

彼女がリョウヘイの中でどんな位置づけになっているのかは知る由もないが、それまでの険しい顔が少し和らぎ、急に営業用のような笑顔が広がった。

「どんなお話しですか?」

少し余裕が戻ったのか、落ち着いた声で聞き返してきた。お茶でも飲みながらと誘ったが、出勤途中なので、できれば歩きながらが良いと言われ、そのまま近くの代々木公園まで歩くことにした。

 歩きながら、高井は美穂の経済状態がかなりひどい状況であること、努めている会社が傾きそうで、そうなると年の瀬も迫る中無収入になり、多額の借金だけが残ることになりそうなことを説明し、できればこれまで個人的に色々と用立てた金を少しでもいいから返してもらえないかということを単刀直入に切り出した。リョウヘイはそれまで頷きながら無表情に聞いていただけだったが、金を返してほしいというところまでくると、流石に立ち止まって、ゆっくりと答えた。

「確かに、色々美穂さんには助けてもらったのですが…借りたわけではないので、返せといわれる理由な無いと思うのですが…」

「まあ、そうおっしゃると思ってました。でも、あなた良いマンションに住んでらっしゃるし、車も何台か持ってらっしゃるじゃないですか?それに店ではトップクラスなんでしょ?だったら、貯金なんかも結構お持ちでしょう?」

とおだてつつ、彼の懐具合に探りを入れた。こちらがある程度の情報を知っているのが分かると、いたずらに隠すこともなく、しかしきっぱりと

「ありがとうございます。でもマンションは普通のだし、車もみんなお客さんから貸してあげるって言われたから置いてあるだけで、全然乗ってないですよ」

と全部自分が使用していることを認めたが、まだとぼけている。

「でも、品川ナンバーのやつは貴方名義じゃないですか?」

と一番高そうな外車のことを話題にすると、さすがに~こいつどこまで調べてるんだ~と、涼しげな二重の眼が訴えてきた。

 そのまま暫く歩き続けた後、高井はつとめて冷静に切り出した。

「いきなりこんな話で驚かれたと思います。今すぐにお返事をいただくのは無理だと思いますので、2~3日後にでもまたお会いできないでしょうか?」

リョウヘイは、多少は返してやろうという気があるのか、明確に否定はしなかった。

「そうですね、僕もちょっと考える時間が欲しいので」

「ええ、いいですよ」

高井は最初に渡した名刺の連絡先に電話をくれるよう頼んで、リョウヘイとそこで別れた。

 リョウヘイからはなかなか返事が無かった。そろそろ1週間になるので、こちらから電話してみようかと思い始めたころ、リョウヘイから電話があった。この間と同じように外で会おうということである。簡単に電話で要件を済ませないということは、多少は期待がもてなくもない。高井はその日の夕方、今度は駅前で待ち合わせてリョウヘイを待った。約束の時間きっかりに現れたリョウヘイは無言で歩き始めた。

「まあ、色々考えたのですが、美穂さんにはこれまで世話になったので、恩返しの意味も込めて少しは出してもいいですよ」

と、切り出してきた。

「どれくらいを考えてらっしゃるのですか?」

「今用立てることができるのは10万円位です。」

「ありがとうございます。でもそれだと家賃と返済両方は無理ですね…もうちょっとなんとかなりませんか?」と高井は続けた。

「あくまでも、こちら側の気持ちなので、それくらいで勘弁してほしいです」とつれない。

「まあ、僕も彼女が借金までしているとは知りませんでしたので…」

「でも楽しい時間を過ごしたわけですから、自分のことは自分で何とかしてもらわないと」

「例えば、言い方が悪いかもしれませんが、風俗なんかに行けば手っ取り早く稼げると思いますよ。けっこう美形なんで、すぐに売れっ子になるんじゃないですか」

と突き放してきた。その後もしばらく雑談めいた話をしながら歩いたが、今日はこれ以上ひっぱっても上乗せは難しいだろうと考えて、高井はリョウヘイと分かれた。今10万受け取ってしまうと、手切れになってしまうので、もう少しねばることとして、まずは美穂に中間報告をすることにした。

 29日の午後、オフィスを訪ねてきた美穂はかなり憔悴しているように見えた。高井の説明にも心ここにあらずという感じで聞き、無言で立ち去った。流石にリョウヘイが風俗の話をもちだしてきた、とまでは言えなかった。美穂を送り出したあと、高井はリョウヘイの持ち物の査定をしてみた。彼が腕に着けているゴールドの機械式の腕時計は100万円は下らない代物だった。自分名義の外車も恐らく数百万円のリセールバリューはあるだろう。あとは、どうやってそれを処分させるかであるが、特に妙案は無かった。

 翌日、高井は年末年始を休みにすることを美穂に伝え忘れたことに気づき、美穂の携帯に電話を掛けた。ところが何度掛けても“電源が入っていないか、電波が届かない…”となって応答が無かった。未払いで止められた場合は“お客様の都合で・・・”となるはずだし、そもそも携帯を未払いにすると信用情報が一発でアウトになるので、多重債務者は気を付けるはずである。

「まさか、自殺とかしてないだろうな?」

昨日の美穂の姿を思い出しながら、高井は少し不安になってきた。

「やっぱり10万だけでも貰ってやるべきだったかな」

と少し後悔しながら、郊外にある美穂のアパートを訪ねることにした。

 新宿からJR中央線に乗り、車窓から見える景色に高いビルが少なくなってきた頃駅についた。この時間帯はバスもあまりないので、住所を頼りに歩くことにした。玉川上水の小さな土手の近くにアパートがあった。高井のオフィスのある西新宿の近くにも、上水の跡がある。今は使われていない水路が美穂を高井にめぐり合わせたのだろうか、などと一瞬考えが浮かんだが、そんな感傷はどうでもよい。ともかく美穂の部屋に向かった。

木造ではないが、軽鉄骨構造のアパートである。

(やっぱり、10万もらって家賃にあててもらった方が良かったかな?)

後悔の念にとらわれながら、チャイムを押したが返事が無い。中に人の気配も無かった。高井は思い切ってドアノブを回してみた。ドアには鍵が掛かっておらず、スルッと手前に開いた。

「平下さ~ん、高井で~す」

呼びかけには反応が無かった。

 意を決して高井は部屋の中に入ってみた。万が一、部屋が犯行現場になっていると困るので、靴は脱ぎ、電気のスイッチも手袋をしたまま押した。きれいに整理整頓された部屋は少なくても半日以上は人が居た感じでは無かった。部屋干しの下着はすっかり乾いている。

(昨日は家に戻ってないのか?)

女の一人暮らしで鍵を掛けないなんてあり得ない。

(まさか、夜逃げしたか?でも荷物を持ちだした様子もないし…)

オープンラックのハンガーの洋服も見たが、昨日彼女が着ていたものは掛かっていなかった。

 こういう時にあまり長居するとろくなことにならない。高井は取り敢えず立ち去ることにしたが、ふと目に付いた宅急便の空き箱から母親と思しき差出人の書かれた送り状を抜き取ってコートのポケットに入れた。

 オフィスに戻ってからも、手持無沙汰であった。10万をリョウヘイから受け取るにしても、美穂の意向も確認しなければならなかった。しかし当の本人が所在不明では何もできない。そうして大晦日の夕方まで当ても無くただオフィスで時間をつぶしていた。リョウヘイにもさりげなく電話を入れ、美穂から何か連絡が無いかと尋ねたが、特に無いとのことであった。これからお客様とカウントダウンパーティーをやるとのことなので、美穂が行方不明になっていることには触れず、又年明けにでも連絡すると告げて電話を切った。

 窓の外で酔っ払いが騒いでいる声で目が覚めた。オフィスのソファーでうたた寝をしながら年を越してしまったことに気が付いた。結局美穂からは何の連絡も無いままだった。

 急に腹が減っていることに気が付き、高井は年越しそばとして買っておいたどん兵衛を作るために電気ポットのスイッチを入れた。何気なしにパソコンも立ち上げ、いつも見ている情報サイトを開いた。どん兵衛にお湯を入れて待つ間、なんとなく情報サイトをスクロールしていた。紅白がどうだったとか裏番組の視聴率だのどうでも良い話題ばかりだったので、そばを食べるのにしばし集中していた。

(酒でも飲んで帰るかな)

そう思って、パソコンを閉じようとした時、画面に最新のニュースが表示された。画面に目をやると、ついさっき配信が始まった「Should I Save It?」という謎のサイトのことが取り上げられていた。手の込んだジョークかなと思いながら、そのサイトのURLをクリックしてみた。次の瞬間、高井の手からどん兵衛が滑り落ちた。

「ええ、平下さん?」思わず叫んでしまった。

 床にこぼれた汁を雑巾で拭きながら、画面を何度も見てみた。顔つき、髪型は彼女そのものであり、少し特徴のあるコートは、先日彼女が高井のオフィスを訪ねてきたときに着ていたものである。念のため何度もかけた美穂の携帯に電話をしてみたが相変わらず繋がらない。

 暫し悩んだが、美穂の実家にも電話をしてみた。電話口にでた母親には、簡単に自分の立場を説明し、彼女から連絡がないかを尋ねたが、母親は、年末の帰省のことを聞くために何度も電話とメールをしているが、一切連絡が取れないことと、会社も留守になっていることを泣きながら説明してくれた。友人には連絡してみたかと尋ねてみたが、どうやらほとんどいないらしく、仕事以外での彼女の東京の生活は何も知らない様子であった。

明日一番の高速バスに乗って、アパートを訪ねてみるという母親に対して、高井は、状況が分かれば逐一報告すると思いとどまらせて、電話を切った。

 今一度じっくりと画面を見た。まず、これは警察に相談するべきかどうかであるが、問題はこの映像をどうやって彼女であるか、証明しなくてはならないだろう。たった2~3日連絡が取れないだけだし、アパートには書置きの類も無かった。携帯も電源が切られていれば確認できるのは最後の電波の受信地になろう。通話履歴で高井との履歴が最後になっていたら、自分も怪しまれるかもしれない。

【解放額】と書かれた金額は300万円ちょうど。 その下に表示されている残り時間35時間以内に払わないと“終わり“ということのようである。飛行機では無く、わざわざバスで来ると言った母親には残念ながら支払いは不可能な金額だろう。となるとリョウヘイしかなかった。しかし、なぜ300万円なのか。身代金にしては中途半端な金額である。

 気が進まなかったが、リョウヘイの携帯を呼び出してみた。10回くらい鳴らしたが、なかなか応答しない。もしかしたら居留守を使われているかもしれない。高井の脳裏には、うんざりしたイケメンの顔が浮かんだ。3度目に掛けた時にやっと応答したリョウヘイはご機嫌な様子で「ハッピーニューイヤー、探偵さん!」と前夜からのテンションがまだ上がったままのようである。

「いや、それがハッピーじゃないんですよ。美穂さんが誘拐されたみたいなんです」

と、リョウヘイの気分を一気に盛り下げるセリフで高井は切り出した。リョウヘイはつい今しがた店が終わったようで、電話では到底説明できないこの状況を知ってもらうために、至急セビリア探偵社のオフィスまで来てもらうように頼んだ。最初はセンスの悪い冗談か、返金額の上乗せの交渉かと訝っていたリョウヘイであったが、最後は渋々了承した。

 七時を過ぎて辺りが明るくなり始めたころ、古い雑居ビルの殺風景なオフィスに、女性ものの香水の香り・たばこ・酒の匂いと一緒にリョウヘイが入ってきた。高井は淹れておいたコーヒーを進めたが、リョウヘイは「お構いなく」と言って高井にもう一度説明するよう促した。彼は、高井から「Should I Save It?」のサイトを見せられ、また情報サイトで取り上げられていることを見て、やっと信じる気になったようである。

驚いたことに、サイトには2つウインドウが増えていて、少年(660万円)、男性(600万円)が写っている。タイムリミットは美穂より2時間遅れと、6時間遅れとなっている。

 只ならぬ事態に、リョウヘイはおもむろに立ち上がり、小さな流し台に置いてある灰皿を見つけると、歩きながらウインストン・キャスターに火をつけた。そして、冷めたコーヒーを啜りながら吸い続けた。彼が吐き出す煙に、ほのかにバニラビーンズの香りを感じた時、高井はリョウヘイの端正な顔立ちの中に隠された、本来彼がもつ“優しさ”のようなものを感じた。

「フーッ」と溜息のように最後の煙を吐き出し、キャスターを上品に消しながらリョウヘイは高井を直視してこう言った。

「美穂さんがこうなった直接の原因が私にあるかと言われても答えようがないですが、金が払えないで、最悪殺されてしまうというのも後味が悪いですね。それに警察にも色々調べられると営業に支障がでるかもしれません」

「取り敢えず、今すぐには手元にはないですが、知り合いに“カード屋”がいるので、掛け合ってみます。美穂さんから色々と用立ててもらった時に、よく使ったヤツで、同伴する前にメシ食ってる時によく呼んだことがあるんです」

 なんでも、カード端末を持ち歩いて、どこででもカード支払いを受け付けてその場で現金を払ってくれるという便利な稼業があるらしかった。

「但し、借りるのは私じゃあなく、美穂さんの名前にしてください…それから高井さんと私が連帯保証人ということにして」

「貴方が借りてくれるんじゃあないの?」

「まさか…でも車くらいは担保にされてしまうかもしれないけどね」 

流石は水商売で揉まれているだけのことはある。バニラビーンズの香り程甘くはなかった。

 リョウヘイは早速カード屋に電話を掛け、明朝セビリア探偵社まで金を届けてもらう手配をしてくれた。彼の外車も担保価値としては十分らしかった。残念ながらカード屋も元旦には大金が用意できず、1日待たされることは致し方なかった。

「まあ、美穂さんには申し訳ないですが、無事戻って来れたら風俗でも行ってもらわないといけないですね。そうすればついでに今ある借金もすぐに返済できるんじゃないですかね」

 リョウヘイは、午後からお客さんと初詣の約束があるからと言って帰って行った。高井は、明日もう一度ここでカード屋と一緒に又会うことを念押しした。 

 高井は美穂の母に電話をし、美穂は現在ちょっとした金のトラブルで連絡ができない状態だが、解決するための算段ができたことを伝えた。どういうことか納得できない様子だったが、それ以上言えないということで承服させた。今はまだ彼女の命を救うことが最優先なので、その後彼女がどういう境遇にならざるをえないかということまでは言わずにおいた。 電話を切ると急に眠気が襲ってきた。

(俺もアパートに帰って一眠りするか)

もう一度、パソコンの画面を見た。残り時間は28時間を切っていた。美穂は疲れてしまったのか、床に横たわったままで、金額は相変わらずゼロのままだった。他の二人も同じように時間だけが経っていたが、入金はゼロのままであった。

(みんな心配してくれる家族や友人はいないのだろうか)

 目が覚めた高井は、部屋が真っ暗なことに驚き、反射的に時計を見た。夜の十時であった。

(随分寝たな…)

 こんなに寝たのは久しぶりな気がする。寝すぎたことへの多少負い目のような気分もあるが、所詮はしがない探偵と一依頼者の関係でしかない。美穂のことが気になったがパソコンはアパートには置いていなかった。携帯もガラケーなので、またオフィスに行くことにした。

 全く気が付かなかったのだが、携帯には美穂の母親から何件か留守番電話メッセージが残っていた。まだサイトのことは知らないらしく、状況についての問い合わせだけだった。

 オフィスへの途中、腹も空いていたので、中華屋でラーメンでも食べることにした。ラーメンを待つ間、なんとなく見ていたテレビのニュース番組を眺めていた。正月のネタばかりであったが、最期に「Should I Save It?」が取り上げられていたので、思わず見入ってしまった。紹介はほんの1~2分で終わってしまいコメンテーターも「悪い冗談でしょうか?警察は動いているのでしょうかね~」と脳天気なことを言って、それでおしまいだった。 

(世間はまだ全然認識してもいない、この人は平下さんですよ)

と心の中で叫んだ。声に出したところで、変な人と思われるだけであろう。イライラする気持ちを抱えたまま、不味いラーメンを平らげた。今日はギョーザもビールも付けなかった。

 オフィスの電気を点け、パソコン立ち上げた。美穂の様子には変わりがなく、ただじっと座っているだけだった。他の二つのウインドウはウロウロと歩き回っていたり、カメラがあるのだろうか、それに向かって叫んでいる映像で、見るに堪えなかった。高井は子供のころ連れていかれた動物園で、悲しそうに歩き回るトラやそっぽを向いて独り言を言っているように見えたチンパンジーのことを思い出してしまった。

(あの動物たちは今頃どうしているのだろう?もしあの檻の前に解放額(購入金額)と時間が表示されていたら、お小遣いから出す子供でもいたかな)などと、あらぬ想像をしてみた。

 明日“カード屋”とやらから金を借りることができるとして、そのあと送金する段取りも考えなければならなかった。何の口座だか分からないようなものに支払わなければならないのだが、自分はそういうことにはあまり詳しくない。そこで自宅でデイトレーダーのようなことをしている、学生時代の友人のことを思い出し、電話をしてみた。彼には詳細は伝えず、ただ代わりに送金だけしてほしいと伝えたところ、年始は高井から友人宛に銀行から送金しても4日まで届かないので、直接手渡して欲しいとのことだった。幸いにも彼は300万円程度ならネット銀行で送金できる程度の残高は持っていたので、明日の午前中に届ける約束をして電話を切った。今日はこれ以上できることがないので、帰って酒を呑んで寝ることにした。

 翌朝、セビリア探偵社にカード屋とリョウヘイがやってきた。借用書の返済条件は悪徳とまでは言えないが、延滞すると、雪だるまのように増えそうな条件だった。連帯保証人欄にはなぜか高井の名前しか無かった。リョウヘイは涼しげな顔をして、カード屋に車検証と予備のキーも預けた。保証人欄には名前は書かないが、これで義務は果たしているとでも言わんばかりである。どうやら最初からそのつもりであったのだろうか、それとも後からカード屋に入れ知恵でもされたか。とにかく目の前に置かれた300万円の札束を引っ込められては元も子もないので、高井は渋々捺印をした。

カード屋が帰った後リョウヘイは、

「じゃあ、後の送金は高井さんに任せましたよ。無事美穂さんが解放されたら、次の仕事と返済方法を考えて、また連絡してください」と告げた。当初提示してくれた10万円については忘れているようである。まあ、これだけ巻き込んでしまってはしょうがないだろう。

 リョウヘイを見送った後、高井はタクシーに乗り、デイトレーダーの友人宅に向かった。

 友人宅に到着したときにはすでに午前10時を少し過ぎていた。挨拶もそこそこにして高井は「Should I Save It?」のサイトを見せ、指定されているアカウントに送金してくれるように頼んだ。最初はニコニコしていた友人も「おい、変なことに巻き込まないでくれよな」と少ししり込みし始めた。焦る高井は、胸ポケットから300万円の束を取り出し、「兎に角人の命がかかってるんだ。後で埋め合わせするから、先ずは送金だけしてくれよ」と半ば強引に友人に手渡した。

「もう、仕方ないな」と渋りながらも有人は自身が持つヨーロッパの銀行のプライベートアカウントにアクセスし、オンラインでの送金の手続きを始めた。流石にセキュリティが厳重らしく、認証のためのプロセスがいくつもあった。手続きを完了して暫く経った頃、友人は

「おかしいな、こんなこと初めてだな」といつもと様子が違うと言い始めた。どうやら、セキュリティの担当者から確認の連絡がくるので、それまで待てとのことである。「どれくらい掛かるんだ?」という高井の質問にも彼は「いや、それは分からないよ」と答えるだけであった。

 じりじりとしながら待つ間、高井は「Should I Save It?」に映し出される美穂を見続けていた。30分、1時間、ただ無為な時間だけが過ぎていった。

 不意に、“ピィーン”と鳴る音とともに、送金手続きの画面が変わった。英語で書かれたそのメッセージをサッと読んだ友人は高井に「まずいよ、銀行のアンチ・マネー・ロンダリング・システムに引っかかってしまったので、送金できないって言ってきたよ」とお手上げの身振りをした。

 「他の送金方法は無いのか?」との問いに、友人は銀行からの送金をキャンセルする手続きをしながら「じゃあ、ビットコインから送ってみるか」と別の方法を提案した。色々な金融商品を扱う彼は、数年前からビットコインにも投資を始めていた。然し数年前に破綻したマウント・ゴックスで多少損をしたようで、オンラインのアカウントに置かず、オフラインのウォレットに移していた。それをオンラインに移動するのに少し時間が掛かるというのである。

そうこうする間に美穂の映像に変化が現れた。盛んに動き回る様になり、表情に険しさが増してきたようだ。それと、床が濡れているようにも見える。

「水?」高井が思わず叫んだ。

友人もその画面をチラッと見やりながら、「もうちょっとだから待ってくれ」と申し訳なさそうに呟いた。

 「どんどん水が上がってくる」

 「すまん、中国の取引サイトだからちょっと時間がかかるんだよ…」

 「おい、もう膝まで来た…」

 「…」

 「あ、倒れた…」

 「…」

 「どこまで上がってくるんだ、この水…」

 「ウン、これから送金するぞ」

 「兎に角、早く!!!」

 「送った…」

 「おい、金額が変わらないぞ!」

 「いや…普通は10分くらいかかるんだよ…」

 「エッ、10分」そう言って高井は映像に表示される残り時間と友人の顔を交互に見た。

 「間に合うのか…」

 「…」

送金手続きのパソコン画面には、先方から受け取り確認の通知がまだ届かない。もう高井は美穂の姿を見続けることができなくなっていた。

12:00美穂の姿が画面から消えた。 そして、送金画面を凝視していた友人が呟いた。

「受け取り拒否…された…なんで?」

天井を仰いだ高井は独り言のように呟いた。

「時間切れか…」

母親、リョウヘイ、カード屋。関係者の顔が高井の脳裏を駆け巡った。

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