櫻井武

ここが天国だとしたら、あまりにも無愛想だ。

ここが地獄だとしたら、それもやはり、無愛想。

櫻井は、うるさいほどの静寂のなかに目覚めた。

西武池袋線のすぐ脇、電車が通過する振動でたちまちに崩れそうな、家賃3万5千円の古びたアパートに暮らす櫻井にとって、コンクリートの見知らぬ天井は、やけに高かった。

ここがどこかは知らないが俺は死んでいないのだなと、激しい吐き気と頭痛のなか、背中に伝わる床の冷たさが妙に櫻井に生の実感を与えた。

 今から31時間前の1月4日22時、櫻井は自らの命を絶った、はずだった。

アルバイト先である中華料理店の厨房で、大量の睡眠薬を飲んだ。1月5日から営業を開始する中華料理店だったものだから、冷たくなった死体を見つけてもらうにはちょうどいいと、自らの死に場所に選んだつもりだった。

39歳になった櫻井は、孤独だった。

両親も兄弟もいなければ、友人も恋人もいなかった。ただ、死してなお孤独であることは、悲しみよりも恐怖だった。死後の世界に、櫻井が唯一愛した、自分の存在意義のすべてと言っても過言ではない“あるもの”があるとは限らなかったからだ。それが必ず死後の世界に在ると信じたい一方で、しかし心細さを拭いきることができなかった。

そうやって、まだ働き始めて間もない中華料理店の名も知らない同僚たちに、人生の終わりに介錯を求めたのだった――

 櫻井は強烈な吐き気に襲われ、薄暗い部屋のなかに胃液を吐き散らす音が響いた。睡眠薬では死ねないのだなと、息もできない苦しみのなかで深く後悔した。そうしてしばらく吐き続け、焼けそうにひりつく喉を堪え胸いっぱいに空気を吸い込んだとき、ふと、微かに潮の香りを感じた。無愛想な灰色をしたブロック壁には、マシンガンの一斉掃射を浴びたように、無数の小さな丸穴が開いているようだった。櫻井は、口の周りの吐瀉物を手で拭い、懐かしい潮の香りを、再び肺いっぱいに取り込んだ。

 幼少の頃、櫻井はバレエを習った。

海の近くにある田舎の小さなバレエ教室で、生徒の数は片手で数えるほどだった。

野球、水泳、習字にそろばん。両親、とりわけ母に多くの習い事を当てがわれたが、櫻井はどれもすぐに行かなくなった。辞めたいとも、続けたいとも言わず、ただ無言の抵抗によってそれらを拒絶した。そんななか、バレエだけは別だった。寡黙で友人のいない櫻井にとって、言葉ではなく体で自分を表現するバレエは、それこそ言葉では言い表せないほど楽しかった。先生が手で叩く人工のリズムより、さざ波の奏でる優しく優雅なテンポでバレエを踊りたいと、櫻井は踊りながらそんなことを考える子供だった。

小学校を卒業する頃だった。櫻井は、母に「誕生日プレゼントは何が欲しい?」と聞かれ、「バレエが観てみたい」と一言答えた。櫻井が覚えている限り、これが生まれて初めて、自分の願望、望みを誰かに打ち明けた瞬間であった。父親が運転する車で家族3人で劇場へと向かったその日、櫻井の両親は大型トラックと正面衝突事故を起こし即死した。そんななか櫻井ただ一人、後部座席のわずかな隙間に入り込み奇跡的に無傷であった。目の前で押し潰され、もはや肉の塊でしかなくなった両親の姿を。自分の顔に滴り落ちる生暖かい血を、思い出す度に櫻井は何度も何度も思うのだった。俺は誰かに何かを望んではいけない人間なのだと。

 櫻井は高校を卒業したあと、東京のバレエ団に入った。誰の力も、助けも借りず、自らの意志で上京し、自らの意志でバレエ団に入団した。決して、プリンシパルやソリストといった、舞台上の主役になりたいという強い願望はなかった。ただ、踊っていたかった。何十人というコールドバレエのなかの一人として舞い、眩しいほどに明るい舞台の端、薄暗さのなかにひっそりと踊る自分でも文句はなかった。とても生活できないようなギャラしかもらえなくても、ほかのアルバイトで食い凌いだ。苦ではなかった。それで踊り続けることができるのであれば、それでよかった。そうやっていつのまにか39歳になった今年のクリスマス、櫻井はバレエ団代表に引退を促された。促されたというより、身を引いてほしいという願出だった。誰に何を求めることもなく、願うこともなく生きてきた櫻井は、ついぞ願わなかった。ギャラもいらないから、ただ躍らせてくれないかとは、言わなかった。ただ寡黙に、ただ黙々と踊ってさえいれば幸せだった櫻井の舞台は、あっけなく幕を閉じた。櫻井は、死後の世界に踊ることができる、新たな舞台を求めた。

――深い深呼吸を終え、肺を潮の香りでいっぱいにして横たわる櫻井の顔を、一筋の光が照らした。たった今昇ったばかりの朝日が、壁の穴を通って幾千もの細い光の筋となって差し込んでいた。ステンドグラスから降り注ぐ光を、誰もいない荘厳な教会で一身に浴びているかのような感覚に、朦朧とする意識のなか、櫻井はただただ美しいと思った。丁寧に磨き上げられ、目が眩むほどの照明機材に照らし出された劇場の舞台より、どこか分からない、無機質で無愛想なブロック塀小屋のここが、ずっと美しいと思った。

「もしかして、俺は本当に死んだのではないだろうか?」

そう考えると、急に体が軽くなった気がした。

今までにないほど高く優雅に、誰も真似できないほどしなやかに踊れるような、そんな気がしてならなかった。

踊りたい。

櫻井は、白い息を吐きながら立ち上がり、おもむろに着ている物をすべて脱ぎ捨て、踊り始めた。狭い部屋のなかを縦横無尽に、くるくると回り、高く跳び、ただひたすらに踊った。差し込む光と冷たい陰のなかを、櫻井は狂ったように踊り続け、次第に体からは白い蒸気を発し、とめどなく汗が流れ落ちた。足はざらざらとしたコンクリートの床に削られ血だらけになり、壁に打ち付けた両の手も無惨な状態だった。それでも櫻井は、踊り、踊り、踊った。

遠くで、まるで踊りにリズムを合わせるように、人生の輪郭を優しくなぞるかのように、穏やかな波の音が櫻井には聴こえたような気がしたのだった――

 “Should I save it?”が世界にばら撒かれて数日。

その存在を知る人間はまだそれほど多くはない、1月6日AM10:59。

タイムリミットが切れるまでの4時間以上、解放金額120万円の男は慟哭する様子もなく、カメラの存在に気付くこともなく、誰かに何かを求め、何かを望むそぶりなどみせないまま、ただ踊り続けた。しかし、その姿をみた誰一人として、極限状態で錯乱した哀れな男だと思った人間はいなかった。暗がりのなかで無数の光の筋を浴び、光と影の芸術のなかで繰り広げられる櫻井の踊りは、事情が全く分からない多くの人々の心を確かに揺さぶった。

この世界に何も求めず、何も望まなかった一人のバレエダンサーは、最後の最後、多くの人間に求められ、多くの人間に望まれたことを知らない。


櫻井武 解放額120万円 最終金額7万円 失血により死亡。

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