槇村楓

私は平凡な小市民で、いつだって弁えて生きてきたつもりです。

小中学校はふつうの公立でしたし、高校は家から自転車で三十分の商業高校へ進学しました。在学中に簿記の資格を取り、卒業後は地元の公認会計士の事務所に就職しました。社会人になってからは特にめずらしいこともなく日々を過ごしています。就職してからの十年で交際した男性は片手で数えることができるほどの数ですし、その中で深い関係にまで発展した人になると二人しかいません。お給料は地方での一人暮らしに支障がないくらいに頂いていて、それなりに貯金だってあります。

幼馴染たちは私と違い大学まで行った子たちばかりで、成功している人もいればそうでない人もいるようです。一人は音大に進学して医師と結婚し、奥様生活を謳歌しています。一人は一流商社のバイヤーとして世界を飛び回っています。一人は三年前に結婚し、現在一歳となる子持ちです。彼女は小規模ながらも福利厚生が充実した企業で働いていて、夫とも仲睦まじく会うたびに眩しいと感じます。もう一人は大学院まで進学したのですが思い描いていた職業には就けなかったようで、会うたびに自分は職場で過小評価されているのだと文句を言っています。彼は悪い人ではありませんが、資産家の両親に甘やかされて育ったためか、自分はすごいと思いがちな気がします。

私の人生はつまらないだろうと言うことでしょう。高望みもせず華やかな物事を右から左へ受け流す私は、一部の人には理解できないかもしれません。

けれどそれでよいのです。

私は自分のことをよく知っています。私は幼馴染の一人のように容姿が優れているわけでも、語学が達者なわけでも、笑顔がやわらかなわけでも頭が良いわけでもありません。だから私は、いつだって手の届く範囲の物事で満足できてしまうのです。野心がないと思われるでしょうが、それが私という人間なのです。

そういったわけで、私は今の状況に首を傾げています。

私がいる部屋は狭いですが整然としていて、ほこりっぽいとか汚いという印象はありません。家具もない無機質な空間ですが案外きちんとしていて、身動きに困るほど狭いというわけでもありません。暗い天井に目を凝らすと隅の方に監視カメラのようなものが見えます。目につく物らしい物はそれだけで、特に気になることはありません。

手や足は縛られておりませんし、部屋の中なら自由に動き回ることもできます。自分がどうして、何のためにここにいるのかを忘れることができれば、それほど問題ないように思います。

そういったことがつるつると脳内に流れていく中で、私はふと以前インターネットで耳にしたある噂を思い出しました。インターネットは聞くものではなく見る者だと言われそうですが、そういった些細な問題はこの際脇に置いておきます。噂とは、『should I save it?』という、誘拐された人間がリアルタイムに中継されているサイトのことです。誘拐の被害者は著名な女性から一般人まで幅広く、年齢性別はばらばらです。わかっているのはタイムリミットが存在し、時間内に決められた金額が集まらなければ被害者は殺されてしまうということです。

私はそれほどあれがしたい、これがほしいというものはありませんが、まだ死にたくはないなと思います。愛する人と穏やかな生活をしてみたいですし、両親に温泉旅行もプレゼントしたいですし、兄一家、とりわけ姪と遊びたいですし、幼馴染で集まってああでもない、こうでもないとくだらない話に花を咲かせて語りあかしもしたいのです。

一体、私につけられた値段はいくらなのでしょう。

父の退職金はまだ残っていますし母のパート代もありますが、私の両親はお金持ちというわけではありません。もし1億円などつきつけられたら、きっと払うことはできないでしょう。そこまで考えて自嘲します、私には1億円なんて大金に見合う価値はそもそもありませんから。兄一家は共働きで年収もそれなりにありますが、幼い姪と来年生まれる甥のことを考えると、金銭的な負担はかけたくありません。

そもそも私の家族は私を見つけてくれるでしょうか。父はいまどき珍しいくらいのアナログ人間で、家でパソコンを触っている場面を見た試しがありません。母はスマートホンをそれなりに使いこなしていますが、ネットの掲示板など見る機会はほとんどないと言っていいでしょう。兄は仕事が忙しく帰宅が深夜になることもあります、当然そういったサイトにアクセスはしないでしょう。兄嫁は心優しい人ですが子どもの世話もありますし、何よりナイーブな妊娠中なのですから、気味が悪いサイトのことなど耳に入れたくありません。そうなると、私が頼れるのは幼馴染くらいでしょうか。けれど彼ら彼女らも忙しく、私を助けてくれる保証はありません。

私に課せられたタイムリミットはどれくらいなのでしょう。あと一時間かもしれませんし、一週間かもしれません。できることなら苦しまずに死にたいものです。むごい姿では遺された人たちにショックを与えるでしょうし、平凡とはいえ夢もあるのに辛い死に方はあんまりでしょう。

今、私の耳には空気の漏れ出るような音が届いています。毒ガスか何かでしょうか、だんだんと瞼が重くなっていき、呼吸の音も静かになります。

何かを思い出すこともなく、私は意識を手放しました。

それから数日はとてもめまぐるしいものでした。

幸いなことに私は解放され、ローカル駅のホームで眠っているところを地元の方に助けてもらいました。家族は大層心配し、職場の方や幼馴染たちも私が無事だとわかるとひとまずと言った様子で胸をなでおろしました。

いろいろとせわしない日々が続きましたが、私はゆっくりと日常を取り戻しています。

幼馴染の一人が家の前で待っていたのはしんしんと冷える夜のことでした。私はとても驚いて、ひとまず彼を家の中に入れました。

ありあわせのもので夕ご飯をつくり、暖かいお茶を飲みながら食卓を囲みます。学生時代は何度も繰り返したことですが、今となっては昔のことです。

普段は愚痴ばかり吐くのですがこの日の幼馴染は上機嫌で、自参したビールを何本も空にしました。私も諌めることもせず、笑顔で彼につきあいました。

時計が十二時をまわったころ、彼は、横に座っていた私を強く抱きすくめました。頭の中で疑問符が踊っています。彼が私に好意を抱いている様子など、私は感じた覚えもありません。酒気をおびた息が耳朶をくすぐり、私は意味もなくぞっとしました。押し返そうと手に力を込めましたが、彼の一言で一気に脱力しました。

「お前の金額、いくらだったと思う?」

この人は何を言っているのでしょう。そもそも今の状況とその話は噛みあいませんし、そうでなくとも忘れたい忌まわしい記憶を再び思い出させるなど。

そんな私を小ばかにするように彼は嗤います。下卑た視線が私の腰に、胸に落とされます。

「320万。安いのか高いのかわかんねえよ」

私は心底寒気がしました。

この人は私を助けたのではありません、この人は私を買ったのです。

そんなのは人の弱みに付け込んだ買春です。

世間が不満で仕方のないこの人は向けられる感謝に酔いしれ、ついでに女をむさぼりたかったのでしょう。

私は必至になってならば証拠を見せてくれと訴えました。本当にあなたがお金を払ったなら必ず返すからと伝えました。320万円は私にとっても大金ですが、貯金を下ろせばなんとか払える金額です。そういうと彼はお前まで俺を馬鹿にするのかと激高しました。

それとこれとは話が違うというと、ものすごく強い力でぶたれました。

あとはなすすべもありません、私はその夜彼とそういった関係になりました。

合意の上で事に及んだのではありません、あんなのはただの暴力です。

私はなにか悪いことをしたのでしょうか、これはその報いなのでしょうか。

それともありふれた理不尽で、星回りがうんと悪いだけだったのでしょうか。

槇村楓 解放額320万 最終金額320万 解放。

購入&サポート頂いた費用はコミュニティ運営費用となります。