三永千昭

ぽこん、という間の抜けたSNSの通知音で目が覚めた。すっかり使われなくなった大学時代のグループトークだった。俺個人あてにもメッセージが届いている。 個人あては「急いでここを見ろ」という不躾な一文とURLのみの短い文面だ。タップするのを戸惑った。それはろくに親交のなかった、顔すら覚えていない人間から送られてきたメッセージだから、という理由だけでは足りない気がする。

胸騒ぎがする。嫌な予感がする。高鳴る動悸が指先まで伝わってくる。URLをタップするとShould I save it?という動画サイトにつながった。ネットに詳しくない俺でもそれなりに噂は聞いていた。

動画は複数あるが、映っているのは1つの動画に対し1人の人間のみ。音声はない。

――知らない人間ばかりじゃないか。

こんなサイトを見せて、一体何のつもりなのだろう。緊張がゆるみ、ほっとしたのも束の間。

「三永(みなが)、さん?」

ページをスクロールした次の瞬間、俺は懐かしい面影のある人物の名を呼んでいた。三永さんと知り合ったのは理系に進むことを諦めきれずに2浪して、結果むなしく入学した地元の国立大学だ。もともと文系科目の成績は悪くなかったのと2年の歳月のおかげで、文系学部ならばほとんどの大学に合格できるレベルになっていた。予想通り本命の私立大に落ち、すごすごと地元の大学へ通うハメになった。国立大というだけで親は喜んだ。同級には著名人の娘などもいたけれど、際立って目立っていたのが三永さんだった。

三永さんは俺よりも3つ年上。現役生より5つも年上だった。高校卒業後、大学へ進学せず諸外国をふらふらしていたらしい。ついにふらふらするのにも飽きて、日本に帰ってきた。すると大学へ行ってみたくなった。受験をした。受かった。だからここにいる。極めてシンプルだった。三永さんは少しも気負うことなく10代後半の若者と肩を並べた。常に人に囲まれていた。話題が豊富でユーモアもある。何よりハーフだかクォーターだか、外国の血が混じったどこか危ういバランスの容姿は目を惹いた。

一方で俺は毎日ふてくされていた。2つ年下の学生に囲まれる環境に馴染むことができなかったのだ。こんなはずじゃなかった、俺はお前らとは違うのだと壁を作っていた。三永さんの前ではそんなバリケードも意味をなさなかった。

「数学の本ばかり読んでるね」

ハリボテの防壁からひょいっと顔をだし、手を振ってきた初めての人だった。

ぽこん、という間の抜けた音が俺を現実へ引き戻した。改めてサイトを見てみると動画には時間とおぼしき数字に加え、6800万円と1400万という金額が表示されている。グループトークの内容からするとこれは動画に映し出されている人物のタイムリミット。6800万は解放に必要な金額。1400万が現在集まっている金額らしい。ならば、あと5400万以上集めなければ三永さんは死ぬ。いや、殺されるということになる。また通知がきた。

「見たか? 三永を助けたい。金が要る」。

俺個人にあてたものだ。あまりの事に頭が回らないまま、朝食の席で彼女に思わず話してしまった。

「いたずらじゃないの?」

お腹が大きくなった彼女は、このところ気分の浮き沈みが激しい。くだらない話をするなとばかりに目をすがめられた。手伝えることは手伝うようにしているが、正直なところまだ父親になる覚悟も自信もない。結婚式を挙げなかったこともあり交際時代の延長線にいる気分だ。彼女を「妻」と呼ぶことにも抵抗がある。

「お金っていくら必要なの」

「5400万円ぐらい」

途方もない金額を、彼女は鼻で笑った。冗談だと思ったのだろう。その反応はもっともだった。俺だってまだ半信半疑だ。半信半疑だといいつつサイトのことが、三永さんが気にかかる。

家でも職場でもふとサイトを開いては、残り時間と金額を確認してしまう。必要額はあと4051万円。

解放金額は捕らえられた人間の年収と同等らしい。つまり三永さんは、何の仕事をしているかは知らないが、年収6800万ということだ。それならば金持ちの知り合いも大勢いるはずだ。俺の予想を裏付けるように順調に金額は増えている。思わずほっと胸をなでおろした。

しかしそれはぬか喜びに終わる。金額がぴたりと動かなくなったのだ。残り500万がなかなか減らない。スマホに届くメッセージも「ほかに金を出せる奴を探せ」と他人任せのものに変わってきた。

 ついに残り6時間を切った。

俺はもう三永さんのことが心配で仕事中もパソコンでShould I save it?を表示させていた。増えない。金額が増えない。あと500万程度なのに。

片時もスマホを手放すことができず、仕事でも自宅でも上の空だ。何とか三永さんの力になれないか。この数日そればかり考えていた。

彼女と結婚した時からこつこつと貯めてきた口座。確か100万はあったはずだ。いつか子供ができたらと手を付けずにいた。

やめろ、やめろと警鐘が聞こえるが、残り1時間を切ろうとしている。もうこれしか方法はない。風呂から上がり、部屋着に着替えたところで気づく。スマホがなくなっている。洗面所まで持ってきたはずだ。慌ててリビングに向かうと彼女が棒立ちのまま俺のスマホを見ていた。パスワードはかけていないから、驚くことではない。

「これ、前に言ってたやつでしょ」

例のサイトだ。三永さんは普段とかわらぬ表情でまっすぐこちらを見ている。

「私も聞いた。いたずらじゃないんだってね。どの人?」

「この人。すごく世話になったんだ。だから―」

「だから?」

残り時間は30分を切っていた。現在の金額は6740万。あと60万。払える。安堵で笑みがもれる。そんな俺を見るなり、彼女の顔に怒りが湧き上がるのが分かった。気づかれた。そう思った。俺が何を考えているか。何をしようとしているのか。

「だから――その、使わせてほしいんだ、2人で貯めてきた……」

「見ず知らずの人間のために!? ふざけないでよ! 子供のためにって言ったじゃない! もうすぐ赤ちゃん産まれるんだよ!? 使うならそっちだよね!?」

「わかってる。わかってるけど」

「わかってないじゃん! なんで!? 世話になったって、その人の話、今まで1度も聞いたことない! どうでもいい人なんじゃないの!?」

彼女はスマホを何度もテーブルにたたきつけ、床に投げ捨てた。

「私たち結婚式だってしてない! そんなことに使うぐらいなら今すぐ結婚式させてよ!」

その言葉が引き金だった。彼女を押しのけ、俺は自室へ向かった。

パソコンの電源を入れ、ネットバンキングのページへアクセスする。

そんなこと? 人の命がかかっているのに?

結婚式? 挙げないことはお互い納得づくのはずだ。

話を聞いたことがない? 当然だ。思い出したくなかったからだ。就職先が決まったとき、結婚すると伝えたときに「おめでとう」と笑ってくれた三永さんの表情を。

キーボードをたたく手がもつれる。焦るな。部屋の時計を見る。タイムリミットまであと10分。あと10分ある。十分間に合う。

また打ち間違った。鍵をかけたドアの向こうで、彼女がわめいている。

あと5分。部屋が静かになった。彼女は諦めたようだ。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、何とか入力を終えた。間に合う。間に合った。これで救える。

入金ボタンを押すとどっと力が抜け、思わずうなだれた。

救えた。助けられた。ようやく、恩返しができた。すべてを吐き出すようなため息がもれる。

動画サイトを確認しようと顔をあげて愕然とした。解放額を満たしているはずだった。しかし目の前に信じられない光景がつきつけられている。

 ネットワークに接続されていません。

何度クリックしても、更新ボタンを押しても同じページが表示される。画面の右下を見ると、ネットワーク接続を示すアイコンに×印がついている。

 まさか。まさか。まさか。まさか。

部屋を飛び出しリビングへ向かうと、引き抜かれたルーターのコードが無残な姿で床に落ちていた。はさみを手にした彼女がぞっとするような笑みを浮かべている。

ぽこん、と間の抜けた音が鳴った。

壊れたと思ったスマホが生きていたらしい。なりふり構わず飛びついた。彼女が泣き出した。スマホも間抜けた音で泣いている。ぽこんぽこんぽこん。

俺がだめでも他の誰かが振り込んでくれたかもしれない。

ひび割れた画面の下で、淡い期待を抱いて確認したメッセージは悲壮なものだった。

こみ上げてくる涙にまぎれて三永さんの声が聞こえる。

「好きなの? 数学」

「だったら続けなよ。向き不向きはあるけど、好きって感情には敵わないもんだよ」

最終的にはね。やめられないでしょ?と三永さんは俺の肩を小突いた。

あの時、うつむいたのは嗚咽を隠すためだった。

数学を続けろといってくれたのは、後にも先にも三永さんだけだったのだ。


三永千昭 解放額6800万 最終金額6740万 死亡(現在死因不明)。

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