嶋田ゆうきfor朝倉瑞穂

うっ血して青黒い腕は、椅子の背もたれに頑丈に結び付けられていた。足首は交差させられるかたちで縄に縛られている。その女はもはや抵抗する気力を失って、うなだれるように梳かれていない黒髪を垂らしていた。

“should I save it?”

解放額 280万

「ゆうきちゃん…?」

PCの動画を見て、思わず息をのんだ。事態が飲み込めるや否や、忌まわしき記憶が今でも鮮烈に思い起こされた。監禁されている女の周囲はただ闇が横たわるばかりで、それがどこの廃墟か、ビル、小部屋なのかさえも判別に難い。暗い寝室では、デスク上の四角い画面だけが白く光っていた。

「横浜市から転校してきました、朝倉瑞穂です。よろしくお願いします」

小学生の高学年というのは思春期にさしかかって、いじめが起きやすい。親の仕事で転校が多かった私はある程度覚悟していた。たしかに、転校して何週間か、お気に入りのトンボ玉ストラップをなくし、予感は当たったかのように思えた。しかしそれ以降何もなく、そんな心配は杞憂に終わった。私は勉強だけは人並み以上に優れていた。卒業までの二年は名門私立中学の受験勉強に費やしていたこともあり、大半が公立中学に進学するクラスメイト達から、ある意味ちょうどよく距離をおかれていたのである。彼らとはどうせ中学で離れるのだから、私の人付き合いは気楽なものだった。

「みずほちゃんて勉強できてかっこいいなあ。私もおしえてほしいな」

「みずほちゃんはいつもノートきれい。このペン、すごくきらきらしてていいなあ」

そんな私は基本的に来るもの拒まず、で特定の仲良しはいなかったものの、嶋田ゆうきとは話すこともままあった。校庭に出払った後のがらんとした空き教室で、私はよく塾の課題を解いていた。もうひとり、嶋田ゆうきも昼休みはよく教室の窓際で、外を眺めていた。

月日が過ぎ、一年と数か月経った。午後四時を過ぎた夕焼けの時間帯に、家の固定電話が鳴った。母が受話器を持ってきて、「嶋田ゆうきちゃんから電話よ」と部屋で勉強していた私に知らせた。ゆうきは放課後あそばないか、と連絡網を調べて電話をかけてきたのである。学校ではそんなに会話しないけれども、一年経てばなんとなくだが、クラスメイトがゆうきを避けていることに気が付いてはいた。私はゆうきと遊ぶことに気が進まなかった。しかし、急な遊びの誘いを喜んだ母は、「勉強しすぎよ。たまには気分転換しなきゃ」となかば強引に私はゆうきの家へと向かわせられたのだった。

ゆうきは私の家の近くまで来ていた。なぜ私の家を知っているのか、とても薄気味悪く感じた。塾に間に合わせるため私は通学路をいつも急ぎ足で、誰よりも早く学校を出て帰る。集団下校などおかまいなし、ほかの児童と比べて明らかに目立ってはいたのだろうが。

彼女に案内され、見知らぬ区域をついて歩いた。灰色の街、という言葉がふと浮かんだ。つぶれた不格好なかたちの家がふぞろいな歯のように立ち並ぶ団地の一角に彼女の家はあった。

「おじゃまします」

私は居間のこたつにいる母親とおぼしき人物に声をかけたが、返事はなかった。赤茶けたぼさぼさの髪に、上下スウェットで、ビールを片手にテレビを凝視している。私は少なからぬ衝撃を禁じえなかった。これまで、友達の家で遊ぶ回数は多くはないものの、毎回お母さんがお菓子や炭酸ジュースをグラスに注いだものをトレーで運んでくれる。それが日常よく目にする光景だった。

ゆうきは気にせず、奥の狭い畳の部屋に案内し、押入れをあけた。湿っぽくかび臭い。中には学習机と、色素の抜けた女児アニメのキャラクターシールがこびりついた柱。ぽっかりと開いた暗い空間には暗闇がいっそう深く見えた。

「ここがわたしの勉強部屋なんだ」

私は天井にぽつんとある、茶色っぽいシミが気になって仕方がなかった。

「ゆうきとあんまり話さんほうがいいよ」

次の日のことだった。廊下で数人の女子に釘を刺されることになったのは。

「転校生の瑞穂ちゃんには言わんとこ、と思ったんだけどね、ゆうきは物を盗る癖があるんよ」

「昭美なんかチャリにいれとった小銭がなくなってたって、それでみんな関わらないの」

私ははたと、なくしたトンボ玉を思い出した。そして、ゆうきはいつも私の持ち物をしげしげと見つめていたということ、ペンや筆箱や、それらがよぎった。

「そういえば、トンボ玉が…」

「やっぱり!ほらね、あいつはさ」

その場はひじょうに盛り上がり、私はクラスの女子と仲良く話題を共有することに成功した。彼女たちは転校生に善意の忠告をし、満足げだった。

次の日もゆうきから電話があった。私は塾があるから、とすげなく断った。

ゆうきはその場に居合わせてはいなかったはずだが、風の便りか、態度ににじみでていたのだろう、以降私に話しかけることはなかった。

そして私は無事卒業し、名門私立に進学したし、大学も希望通りのところへ行けた。

自分でなくしたかもしれなかったのに、彼女らの言葉を継ぐように、補強するように、付け足してしまった。今から思えば、クラスメイトたちの、明らかにみすぼらしい身なりをした、髪も梳かしていないようなゆうきに対する、根拠のない決めつけだった、そう思える。

人間は少しでも異質なところをとがめては排除しようとする。それらしく正当化して、まるでアレルギー反応と一緒だ。私は数年後の理科の授業で思った。それくらいには、私の中の棘だった。のどに刺さった永遠に取れない魚の小骨だ。

動画では死の刻限が迫っていた。前例を見るに、身代金の取引に人は介在しない。仲介役がおらず、いまだ足取りのつかめない犯罪組織、いちばん厄介な類。瑞穂は大学時代の友人にホワイトハッカーがいるので動画の解析を頼んでみたものの、たいしたことはつかめなかった。

ゆうきの家の記憶やいじめのことからして、誰も入金しなさそうだ、と私は思った。そしてこれはゆうきの年収の額なのではないかと気が付いた。あの家庭では進学をあきらめるほかなかった、そして日雇いや非正規雇用に落ち着いたのだろう。私ならば安くはないが払えなくはない額だ。——そうした考えに至る自分への怒り、社会の階層、人の値段を年収で換算する輩への怒りで熱い涙があふれた。

私は指定の口座に280万円振り込んだ。

しかし、このことはけっしてゆうき本人に知られてはならない。そう思った。贖罪の行為は同時に、社会的に上位にいる私からの金銭的施し以外の何物でもないからだ。これは友情ではなかった。彼女の人生の尊厳を愚弄したとゆうきは感じるのではないか。

私は一週間後、ニュースでゆうきが無事保護されたことを知った。彼女の声明文には、お金を振り込んでくれた人を探していて、お礼がしたいとあった。後日、複数の人間が名乗りを上げたという。

「朝倉瑞穂さんですよね。ちょっとお話があるんですが」

出勤前のあわただしい身支度を終えて、玄関をいきおいよく飛び出す。陽の光が目の前にひろがり、黒い影絵や切り絵のような人物のシルエットがくっきりと見えた。もしかしてゆうきなのか、とハッと身構えたが、どうやらそうではなかった。そして、後に続いてもう1人あらわれた。彼らは警察手帳を見せた。

またしても冷や汗が背中をつたう。

「ここでは聴取も困るでしょうから…」

芳醇なコーヒーの香りがカップから立ち上る。私はクッキーをひとかじりした。バターの風味が口に広がって、少し緊張感も和らいだ。しかし、気が重いことであることは変わらない。

「私たちは捜査の過程で、あなたが嶋田ゆうきに振り込んだと目星をつけました。あなたはこの誘拐犯となにか接触をもたれましたか?」

一息ついて、私は首を横に振った。

「なぜ警察に相談しなかったのですか」

「この手の誘拐犯はなにか違うと思ったんです。警察に言っても、どうせお金を振り込ませないで、きっと彼女は死んだ。犯罪者の思うつぼだった、確かにそうでしょう。でも私は嶋田ゆうきを助けられればよかった。それだけだったから…すみません…」

警官の1人は、テーブルにトントンと人差し指を打ちつけた。

「ところで…この人はあなたの友人ですか?」

写真にはメガネに短髪の男がうつっていた。目の下の不健康そうなくまや、土気色の肌、無精髭は、よく見慣れたものだった。私が誘拐犯について調べてくれ、と頼んだホワイトハッカーの友人で、岩佐信宏だった。

「はい、そうですけど、彼がどうかしたんですか」

私は聞きかけて、あっと身を硬くした。もしかして、彼が誘拐をした犯罪組織の一員だと警官は言いたいのか。

私の表情を見て、警官は続けた

「誘拐とは関係ないですよ。」

「…えっ?」

どういうことだろう。

「いや、彼は誘拐犯の捜査を勝手にやってのけて、まあ収穫はあまりなかったようですが。

まず1つ、彼はある失態をやらかしました。自分がホワイトハッカーであること、自分の職場の情報まで、件の犯罪組織に知られてしまったようなんですよ。逆にハッキングされたんです」

私が頼んだばかりに、と引け目を感じたが、彼の職場の話におどろいた。

「彼が勤めているのはちなみに…警察…もしや同僚の方ですか?」

「いえ、もしそうだったら私たちは今こうやって捜査させてもらえませんから。彼は違う部署です。それとですね、もう1つ、こちらの方があなたに悪いニュースです」

警官は淡々と告げた。

「あなたも彼にハッキングされてますよ。フェイスブックやツイッター、閲覧履歴、写真のデータフォルダも、メールも…」

思わず持っていたカップを傾げて、コーヒーをこぼしてしまった。

床に茶色のしみと湯気が広がる。

「もし彼が重要な犯罪組織のハッキングをして私たちの目につかなければ、彼の私的な犯罪に気がつかなかったでしょう…」

私は驚きのあまり、岩佐に対する気持ち悪さなど浮かぶはずであろう感情さえ浮かんでこなかった。

「えっと、それは…」

「彼は当然辞職ですよ。あなたに好意を持っていたのでしょう。だからあなたの頼みも聞いてあげた。そして足がついた、と」


嶋田ゆうき 解放額280万 最終金額280万 解放。

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