平下美穂 The first lady

煌びやかな照明と会話を邪魔しない程度のボリュームで流れるアップテンポな音楽。地味な自分の日常とはかけ離れているが、しかし妙に懐かしいような感覚。朧げに脳裏に浮かんできたのは、いつ来ても楽しい時間を過ごせる「アタランテ」の見慣れた店内だった。

目の前で、はにかんだような笑顔を見せているのは、このホストクラブではナンバー3の「リョウヘイ君」だ。不思議な店名を付けたオーナーもカウンターの向こう側で誰かの飲み物を作っているらしい。相変わらず無精ひげの五十顔がセクシーだ。「アタランテ」とはギリシャ神話の女神の名前だそうで、自分と競争して勝った男の妻になると言っては、負けた男を殺し続けるという話らしい。どちらかというとキャバクラにでも名付けた方が良さそうだが、オーナー曰くそういうお客様に来ていただきたいとの思いらしい。

不意に背後で「ポン」とシャンパンの栓が抜ける音がして、振り返ると最近入ったばかりの後輩ホストが膝をついてボトルを持っている。「エッ」と思わず振り返るとリョウヘイが囁いた。

「ハッピーバースデー、美穂さん」。

 続いて、ヘルプ以外の他のホストも全員集まってきて合唱がはじまった。 全くのサプライズである。

「今日は美穂さんの誕生日なので用意しておきました。でもしばらくご無沙汰だったから、もう来てくれないかって、心配でしたよ」。

そう言って、リョウヘイはいつもは店に置いていない、モエの「ネクター・アンぺリアル」という桃の香りのする甘口のシャンパンを美穂のグラスに注ぎ始めた。

「エッ、私…頼んで…」。

その言葉を遮るように、リョウヘイが人差し指を自分の口の前に立てて言った。

「今日は、店からです。美穂さんは、あまりシャンパンはお好きじゃないみたいだけど、これは甘口だから大丈夫でしょ?」。

足しげく通うようになっていたとはいえ、そうそう店にあるドンペリは頼めなかった。

リョウヘイのバースディイベントのときに見栄で頼んだ10万円のピンクが最高である。他の客が振る舞うブラックやプラチナなどは値段の見当もつかなかった。 なので、いつもは甘口が好きと誤魔化して、スパークリングワインしか頼まなかった。そんな美穂を思いやるかのような、リョウヘイの優しい心遣いに、目頭がぐっと熱くなった。確かに今日12月20日は、美穂の30歳の誕生日である。但し、今日アタランテに来たのは暫く来れなくなるかもしれない、と伝えたかったからである。

地元の高校で同級生だった女友達に誘われて、一度きりのつもりで付いてきたのが始まりで、気が付いたら十二年間コツコツ貯めた「将来の結婚資金」はゼロになり、元の金額と同じくらいになった借金の返済の督促電話に悩まされるまでになっていた。この辺りで歯止めを掛けないと破綻してしまうとの決意を固め、最後に訪れたのだった。

店に入ってきたときにはきっと固い表情をしていただろう。こういうふうに話をしようと色々考えていたことも、「ポン」という音と一緒にどこかに吹き飛んでしまった。

(今日じゃなくて、次でもいいかな)

そんな誘惑にかられながら、シャンパンを飲んでいると、酔いが少しずつ回ってきた。

(嬉しい。やっぱりずっとリョウヘイ君は優しいままだ…)

気が付くと、美穂は暗い部屋の中にいた。背中と頭から、冷たく硬い床の感触が伝わってきた。

(今のは…夢?)

いつまでも浸っていたいような夢だった。 夢の中でも多少が現実のできごとが影響するのだろうか。最後に美穂はリョウヘイが怒っていないことに安堵していた。 あんなことがあったのに。

美穂のバースディを祝ってもらった12月20日以来アタランテには行っていない。結局もう店には来ないということは言えず仕舞いだったが、自分自身の財政状況がかなりまずいことは明確だった。蓄えは使い果たし、更に借金まで作ってしまっていた。悪いことは重なるもので、努めている音楽関係の財団法人の経営が急速に悪化したため、今月25日まででクビを言い渡されてしまった。 理事がかなりの額を使い込みか持ち逃げしてしまったらしく、退職金はおろか今月の給料すら怪しそうである。

そこで、広告を頼りにして、とある私立探偵に相談に行ったのである。 

そこは暇そうな探偵社で、リョウヘイにこれまで色々用立てた、もろもろの金を少しでも返してもらえないか交渉してほしいと相談したのだった。探偵はある意味有能なのだろう、すぐにリョウヘイの素性を洗い出し、多少弱みでも握ったのか、交渉を始めてくれたらしい。それが証拠に2日ほどしてリョウヘイからは短いメールが届き、探偵に相談したことへの皮肉の言葉と、今後美穂との連絡ができなくなるということが告げられた。 彼は美穂との専用のアドレスを削除したのか、美穂からの連絡すらできなくなってしまった。

だから、夢の中とは言え、まだ優しく接してくれたリョウヘイが嬉しかったのだ。

探偵に依頼したのがクリスマス前で、そんなにすぐに事態が変わるとは思えなかったが、借金の督促から逃げるようにしていたので、なんとか返済もしなくてはならない。 

挙句に給料まで止まってしまったら、アパートの支払いもできなくなってしまう。年の瀬も押し迫って、美穂はどうにもならない状況であった。

12月29日、探偵から中間報告があるので、オフィスまで来てほしいとのメールがあった。リョウヘイから幾らかでも返してもらえる算段をしてくれたのだろうか。一縷の望みを持って、電車を乗り継いで西新宿の外れにある探偵社を訪ねた。

「ちょっと厳しそうです」

単刀直入に、探偵は交渉が上手くは進んでいないことから切り出した。ただし、彼はその後も、何度か接触をして少しだけでも用立ててくれるよう交渉することを約束した。また、何かしらの手段を使って揺さぶりをかけているなどとも説明していた。しかし殆ど美穂の耳には入ってこなかった。

どこをどう歩いたのか定かではないが、何とかアパートまでたどり着き、力なくソファーに座り込んだ。

いつまでこの部屋にいることができるだろうか? 田舎の母には何と説明すれば、其れよりも厳格な父には今の状況を説明することさえ許されないだろう。

何を考えても悲観的なことしか浮かんでこない。

(あの後私どうしたのだろう)

打ちひしがれた気持ちでソファーで寝込んでしまったのだろう。しかしそこから先が思い出せないばかりか、今いる場所がどこなのかも見当が付かなかった。起き上がりながら、身に着けているものを確認した。自分の衣服がアパートに帰ってきた時と同じであることだけは確認できた。しかし目をこらして周りを見渡すと、コンクリートを打ちっぱなしにしたような小さな部屋にいることは間違いなかった。

(誰かに誘拐でもされたのかしら? 何だか頭も重い感じがする)

疑問は次々に湧いてくるが、答えは何も無かった。

 「あの~、すいませ~ん」

最初は小さな声で、それからだんだん大きな声で何度か呼びかけてみた。エコーが掛かった自分の声以外は何も聞こえない。返答、いや反応も一切ない。今度は立ち上がってその部屋をぐるっと見渡してみた。広さは四畳半くらいで、天井も低い。窓は無く、天井近くの隅にあるダウンライトのような明かりが一つと、その横に小さな赤いランプ。 反対側の隅の方に何かの太いパイプが2本ある。

コートは着ているが、暖房の無いこの部屋はかなり寒い。歩き回りながら壁を触ったりもしてみた。 何か奇妙な感じがぬぐい切れない。人が住むような部屋という感じがどうしてもしないのである。

(何故だろう)

違和感の正体に気づいた瞬間思わず声がでた。

「どうして…ドアが無いの!!!」

漠然とした不安はどんどん恐怖に変わってきた。

なぜこんな目に合わなければならないのか。身代金目的だろうか、それとも人身売買か、一体この日本でそんなことが行われているのだろうか...

色々な疑問が浮かぶが、答えは分からない。何十分、いやもしかしたら何時間もそんなことを考えていたかもしれない。

突然、「ドン」という音が部屋全体に響いた。と同時に部屋の隅にあるパイプの一つから何かの液体が流れ落ちてきた。 美穂の顔が恐怖に凍りついた。

バシャバシャと勢いよく落ちてくるその液体は激しい飛沫を壁に飛ばしながら、床に広がりながら美穂に近寄ってくる。 逃げる場所もなく立ち尽くす美穂の足は、間もなくその黒い液体に捕らえられた。恐る恐る触ってみると、サラッとしていて冷たい。匂いもない。

(水?)

ふと、小学校の時に近所の男の子が住んでいた団地の貯水槽で遊んでいて死んだというニュースが頭をよぎった。母からは、ユニットバスのような形のその貯水槽には絶対近づくなときつく言われたことも覚えている。死んだ男の子の顔は何となく思い出せるが、名前は思い出せない。たぶん今自分がいるのは、工業用か何かの大きな貯水槽なのだろう。

(私もここで溺れてしまうの?)

不安・恐怖とエスカレートしてきた美穂の心はついに「死」を自覚せざるを得ない状況になった。 水はもう膝の高さまで来ている。天井は自分の背丈よりも高く、浮かぶものや掴まる物も無い。冷たくて凍えそうだった足の感覚も無くなってきた。何かに縋るような気持ちで、パイプとは反対側のダウンライトの明かりを見つめた。そして、その横の小さな赤いランプが何かの機械についていることに気が付いた。

(カメラだ! 誰か見つけてくれるかもしれない)

美穂は、すぐそこに迫っている「死」から逃れるため、カメラに向かって叫び始めた。

「誰か~、助けて~」「お願いしまーす」思いつくまま救助を求める声を出し続けた。時々息が切れて叫ぶことを止めると、水の音だけになってしまうので、声を出し続けなければいけなかった。

水は今や腰の高さになり、いつの間にか洋服はびしょ濡れになり、髪もかなり濡れている。体中に感じていた“震え”はもう“痺れ”のレベルに達していた。 立っているのも難しくなり、何度かバランスを崩して倒れてしまった。 美穂の顔は髪の毛から垂れる水と、涙でぐしょぐしょになり、もう何を叫んでいるのかも分からない。

「お母さーん、助けてー、死にたくないー」

最後の叫び声を出したあと、美穂はあごまで達した水から逃れるべく、ピョンピョンとジャンプし始めた。もう息をするのが精いっぱいで叫ぶこともできない。

(どうして誰も気づいてくれないの?)

立ち泳ぎをしなければならなくなった頃は何度も水を飲んでムセテしまい、もう考えることもできなくなってきた。 

水の音も薄れてきて、自分が今何をしているのかも分からなくなってきた。

また水を飲んで激しくムセテしまったが、反動で入ってきたのは空気ではなく、また水であった。もう息をすることはできず、赤いランプを見続けた美穂の眼が悲しく閉じられた。

水の音が止むことは無かった。

平下美穂 解放額300万円 最終金額0円 死亡。

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