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哲学対話「大人になるって何だろう?」


突然ですが、皆さんは自分のことを「大人」だと思いますか??

今回は、8/14に行われた哲学対話「大人になるとは、どういうことか?」についての活動報告をしていきたいと思います。

初めまして!エートスサークルメンバーのポンです。

今回は、エートスの活動報告NOTEです!!


しかし!

この記事を書いてるポンは、今回、初めて哲学対話に参加しました!!

初参加でしたが、すぐに打ち解けることができ、対話が終わるころにはすっかり仲良くなっていました。初めてでも気軽に参加できる寛容さがエートス魅力だなと感じました!

それでは今週の哲学対話スタートします!!

【テーマ】「大人になるとは、どういうことか?」

今回は肉体的(身体性)な「大人」ではなく、精神的な「大人とは」に焦点を当てて、哲学対話を行いました。


【テーマ設定経緯】

あるメンバーの素朴な疑問(問い)からでした。
「成人式ってあるけど、成人式をやると、大人になったって言えるのかな?]

「成人式という一種の儀式を迎えることで形式的・社会的には大人になるけど、実際中身(精神的に)は大人って言えなくない?」

「そもそも学生・社会人というくくりがあるけど、社会人は大人なのかな?」

「そもそも、大人って何だろう・・・?」

そんなところから対話がスタートしました。

対話の内容・流れは以下の議事録(一部抜粋)を参照。


残りの議事録はTwitter(@sfc₋ethos)に載っているので、ぜひ参照してみて下さい!!よかったらフォローもして下さい!

ここからは、個人的に面白いなと思った論点や考え方、今日の対話を通じて考えた身近な新しい問いについて述べていきたいと思います


【個人的に面白かった論点・視点】

・まず面白いなと思ったのは「大人1.0」と「大人2.0」という考え方。
従来の「大人だね」(大人1.0)という表現は「いわゆるいい子だね。ちゃんと言うこと聞いてえらいね。」などの社会性が身につき空気を読める存在で、自分のしたいことや思っていることを言うのではなくて、相手の求める答えや、無難な発言を言える存在(必要であれば嘘も簡単につく)だよねという話になりました。


その中で「大人2.0」は本来、子供っぽいとされている点(わがまま、自分のしたいことをするなど)のネガティブな面を再評価して、大人だけど、自分の思いに素直・自分の発言に対する相手の反応を考えすぎなくてよくないか?という話になりました。

そこから、子供らしさと社会性の両立・一致(対話の中では「自己願望」と「全体(社会)願望」と表現しました。)はできるよね?(大人2.0)という話になりました。

【大人1.0】全体願望志向(大人らしさ)

【大人2.0】全体願望志向(大人らしさ)+自己願望志向(子供らしさ)

子供(⊖)⇔大人(⊕)という対比軸から、大人1.0(⊖)⇔大人2.0(⊕)という大人の在り方の対比軸で対話したのも面白かったです。

・「子供っぽい」は悪口で、「大人っぽい」は誉め言葉。逆はないのかな?
「子供っぽい」っていう誉め言葉、「大人っぽい」っていう悪口があってもよいのではという話にもなりました。さらに、「childish」というネガティブ表現があるなら、「adultish」っていうネガティブ表現があってもよいのではないか?ともなりました。「adultish」という新概念が生まれたのは面白かったです。

・個人的に2.0という概念(NewsPicks的に言うと「大人をアップデートせよ」)は、今までネガティブな文脈で使われてきた言葉や表現を再定義、再評価するという面白さがあるなと。ちょうど最近自分が、ネガティブとして使用されていた言葉・表現から、ポジティブな面を発掘するのって面白いと思っていて、それが実際に哲学対話でも行われていて、対話にのめり込んでました!
哲学って「そもそも」という大前提すらも問い直す行為だし、哲学すること自体が再評価・再定義することに近いのでは?とも思ったり。

・どのような問いを立てても「自分」と「相手」(自己と他者)、自己と社会という関係に行きつくことが多くて、両者の関係について考える機会が多くて、本当に重要な概念だなと。また、社会の中で生きているんだと実感させられました。

・話はいろいろな方面に派生し、(Twitterの炎上の話や、漫画の主人公が引用されたりもしました。これが哲学対話の醍醐味だなと。)「おっさんは、なぜ自慢話ばかりをするんだろう?それって大人でないよね。」という話にもなりました。

この話を受けて、自分視点で、自分のことだけしか考えない言動をすること・する人を、これから、「マスター」or「MC」(マスターベーション的コミュニケーション…そもそもコミュニケイトしてないか笑)と勝手に呼んでいこうと思います。(笑)

最後に、今日の対話を受けて新しく考えたこと、ふと思ったことを記述していこうと思います。


【新しい視点・問い】


「高齢者って、今日の対話での大人に入るのかな?わりと子供よりなのでは?」です。

きっかけは、帰りの電車の中にありました。登山帰りの推定70-80歳の老夫婦が電車でキャリーバックを棚の上から取り出して、降車する準備を始めていました。しかし、先に下ろした文子さん(老夫婦の奥さん。仮名。)のキャリーバックが進行方向と反対にス―――ット通路を滑走していきました。

(これを見た自分:「あらまー」と思いながら、「キャリ―バック抑えておけよ~。リスク管理しっかり!」とか思ってました。)

文子さんはそのことに気づいていません。結局、途中でキャッチしてくれた人がいてそこでキャリーバックは止まりました。

なんか変な光景だなーと漠然とした違和感を感じ、その状況を少し考えてみることにしました。
これって他の人の迷惑かけていることになるし、電車が発車したら、キャリ―バックが転がっていくことも予想できる気がするな…。大人なら他人迷惑がかからないようにできるはず…(全体願望)

対話の中で「他者への想像力」は大人として必要であるのでは?という論点がありました。
それに則すと、(本人の意思ではないにせよ)高齢者は認知機能の低下、感覚自体が弱くなって、どちらかというと子供に近くなっていないか?他者への想像力の弱くなり、自分のことだけで精一杯なのでは?と考えました。

自分の祖母(89歳)を見てもだんだんと自分のことを自分で管理できなくなり、どちらかというと、わがまま・自己中心的(それこそ、マスター)に戻っていくようにも感じます。

人間って「赤ちゃん・子供(自分中心)で生まれ、社会の中で大人(他者のことを考えられる)になり、赤ちゃん・子供(自分中心)に戻って一生が終わるのか」とも考えたり。

なので、他者への感覚が薄れた高齢の方々は、果たして精神的に「大人」であるのか?皆さんの意見も聞いてみたいです。

初めての哲学対話に参加してみて考えたことをバーっと書いてみました。

より深い対話をするためにも、様々なバックグラウンドの方々が参加し、多様な意見の中で対話を行っていきたいです!是非、ご参加お待ちしています!

興味のある人はぜひ参加、Twitterのフォロー・DMをしてみて下さい。


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