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ある六月の物語

「あ、降ってる。」

定時を少し過ぎたあたり。

オフィスから出てきた吉澤郁人は、

エントランスを出たビルと雨脚の間で

バラバラと隙間無く降る雨を見上げていた。

「傘…忘れたんですか?」

斜め後ろから、急に話しかけられ

郁人の身体は驚いて、少し肩が跳ね上がった。

振り向くと、閉じた唇の口角を、少し上げながら

微笑む中田千都がいた。

隣の隣の部署で働く千都は、確か少し歳上で

何度か仕事絡みで会話をした事があるが、

元々忘れやすい郁人は、会話の内容迄は

当然記憶してなかった。

「吉澤さん、良かったら傘入ります?」

「いや、大丈夫ですよ。止むまで待ちますから。 」

「駅までですよね?一緒に行きましょう。
   嫌かもしれないけど。」

 

笑い声で気を遣いながら、傘を開き

先を歩く千都に、郁人は

すいません、お願いします。

と、背中を丸くした。

郁人がパープルの百合柄の傘に入ると

千都は少し傘を高く上げた。

雨脚は更に強くなり、傘が激しく音を立てる。

何気ない会話の中に、雨音が入り込み

うまく聞き取れないほどだ。

郁人の左肩は、さっきからびしょ濡れで

というか、足元も随分と濡れていた。

傘の存在意味もない位の雨に

二人で顔を見合わせて笑った。

話してもどうせ聞こえないから。

これ以上、跳ねない様に

小走りで駅へ急いで通り過ぎる人々の横を

郁人と千都は、肩が触れない様に歩いていた。

ゆっくりと駅に着き、

2人は物足りないハンカチで

冷たく濡れた身体と鞄を拭いた。

「雨凄かったね。 声全然聞こえなかった。」

と思い出しながら笑う、千都の右側が

郁人よりずっと濡れていた。

「ありがとうございます。助かりました。」

「うん。またね。」

改札口を先に出る千都の後ろ姿を

見送りながら、郁人は

もう少し話していたかった自分に気付いた。


LOW


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