【悪の読書術・門外不出】投資家的読書論

目次

第1 投資家的読書論とは何か(プロローグ)
第2 深い教養? そんなものは要らない
第3 目先の一勝を勝ち取るために何が必要か?
第4 思い出すのは探偵ナイトスクープの「あの回」
第5 カラーバス効果について
第6 カクテルパーティー効果について
第7 読書を開始する前にすでに勝負は決まっている
第8 知識は複利だ
第9 投資家的読書論とは何か(エピローグ)

本文

第1 投資家的読書論とは何か(プロローグ)

1 まずは「不良のための読書術」を読んでみたら良い

 永江朗氏の著作に「不良のための読書術」(ちくま文庫)というものがあります。なお、同書、現在は絶版とのことです。図書館などで手配すれば読める可能性があります、というか、現に私はそうやって読んだので、機会があれば是非とも手に取ってみて下さい。

 同書の内容をザクッと整理すると「本なんて最初から最後まで全てを読む必要なんて無いのだ、面白そうなところを数十ページでも読めばそれで良し。それで元は取れている」ということになりそうです。まあ、私なりの解釈ですが。

 私も、手に取った本、仮にそれが自腹を切って入手したハードカバーの本であったとしても、全てを読むことは「ほぼ」ありません。たまに、極々たまに、あまりにもその本が面白すぎて一文字も漏らさずに読み切ることもありますが、99%以上の本について、飛ばし読みをしています。

2「投資家的読書論」は「不良のための読書術」から影響を受けまくっている

 「投資家的読書論」という言葉自体は私の考えたオリジナルなもの(あくまでもGoogleで検索する限りにおいて見当たらないという意味ではありますが)ですが、その内容自体は「不良のための読書術」から多大なる影響を受けています。これは否定できない。というか、否定する必要も無い。この本のみならず、私が影響を受けた本というのは、他にも沢山あります。Twitterを通じてそれらの本を簡単に紹介することもあります。

3「投資家的読書論」は数々の読書論の編集作業とも言えるものである

 松岡正剛氏の著作に「知の編集術」(講談社現代新書)と「知の編集工学」(朝日文庫)というものがあります。前者は特に今でも容易に入手可能だと思います。松岡正剛氏も化け物級の読書家であり、読書家であることを前提とした編集工学者でもあります。インプットがアウトプットの前提になるということですね、読書=インプット、編集=アウトプット。

 松岡正剛氏のこれらの著作が言っていることを私的に解釈しますと、要するに「人生における知的な営みの本質は「編集作業」だ」ということなのだろうという結論に至りました。

 知的な営みというと、ともすれば新しいモノを創り出すという非常にクリエイティブな作業であると思われがちですが、実はそうではないのだ、と。社会に事実として存在する事象は一定であるが、その事象をどのような観点から見るか、どのような軸から評価するのか、そういった「編集作業」こそが知的な営みの本質であるという主張なのだろうと理解しております。

 この主張自体に、私は完全に同意するわけです。事実として存在する事象を個別具体的に、どのような姿勢で整理するのか、ということこそが、「頭を使う」ということの本質だろうと思っています。

 本稿の主題である「投資家的読書論」という言葉自体は、私が独自に考えたオリジナルな概念です。まあ、Googleでその言葉を調べてもヒットしないという程度のチェックしかしていませんが、「パクリ」に該当するようなものではないはずです。

 この「投資家的読書論」とは、「不良のための読書術」を始めとする、様々な読書術ないし読書論を「編集」したものと言えるでしょう。読書術や読書論に絶対解は無いわけで、色々な立場から「編集」された読書術や読書論をさらに私の立場から「編集」してみたものこそが「投資家的読書論」であるということになります。つまり、目からウロコの落ちる様な目新しい発見などはありません。そこにあるのは、私の個性と自己顕示欲のみです。

 「投資家的読書論とは何か」という答えについて、これといったものは用意していませんが、以下の検討を通じて、何かしらの答えが出ることを身勝手にも期待した結果として、「第11 投資家的読書論とは何か(エピローグ)」という項目を設けました。項目を先に決めてしまった後に内容を考えるという作成過程を経ることになりますが、論理的文章を作成するに際してのセオリーとしては間違っていないでしょう。ただ、厄介な問題があるとすれば、本稿を「論理的文章」に仕立て上げようという気持ちがそもそも私に備わっていないことです。論理的文章を書くのは、弁護士業やコンサルタント業の時だけで十分なのではないか。

 以下において、「投資家的読書論」を定義しないままに検討を進めますが、一応、「第11 投資家的読書論とは何か(エピローグ)」の項目において何かしらの抽象的回答を用意出来ることを目指した形で話を進めていきます。

第2 深い教養? そんなものは要らない

 読書の目的を「深い教養を身につけるため」であると定める人が一定数いますが、個人的には「アホ」だと評さざるを得ません。文章を読むくらいで深い教養が身につくのであれば、誰でも作家になれますし、誰でも週刊プレイボーイや東京スポーツのコラムの連載を勝ち取ることが出来てしまうでしょう。

 読書の目的をどのように定めるのか、ということを考えるために、もう少し抽象的なレベルから検討していくことにしましょう。

 そもそも、読書が人生において必要なものか?という疑問があります。必要ないなら読書なんてしなければ良いし、そもそも本稿も必要無い。noteの投稿を読むことだって読書なわけだけど、noteの存在意義すら無いということになりますね。まあ、そういう結論でも別に構わないのだけど。

 人生の目的とは?という非常に宗教じみたテーマになりますが、万人に通用しそうなズルい回答例としては「楽しく過ごすこと、幸せに過ごすこと」というものが挙げられるのではないかと思います。極めて抽象的な回答例ではあるものの、万人に当て嵌めようとすればこれくらい抽象的になってしまいます。そもそも、人生の目的を説いて教祖になることが本稿の趣旨では無いので。

 「楽しく過ごすこと、幸せに過ごすこと」という人生の目的を達成するための一つの道具として読書を位置付ける、というのが、私の考え方です。

 「投資」というと「株式投資」や「不動産投資」などが思い浮かびそうなものですが、およそ人生の足しになる活動は「投資」と定義付けて良いと思うのです。別に、お金という形で還元されるものに限定する必要は無いのです。お金を稼ぐ目的も結局は「楽しく過ごすこと、幸せに過ごすこと」という人生の目的の前段階に位置するものですから。

 読書も、楽しく幸せな人生を実現するためのものですから、立派な「投資」なのです。そして、楽しく幸せな人生のために必要なのものは深い教養ではありません。目先の利益です。下世話で結構、現金な人で結構なのです。「投資家的読書論」に綺麗事は一切不要。

第3 目先の一勝を得るために何が必要か?

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