見出し画像

時間を緩やかに過ごす

 駅の地下道を出ると、右に曲がった。地下道の構内は流水がこぽこぽと流れる音が響いていたが、曲がるとそれは聞こえなくなった。手狭な一軒家の多いこのあたりに越してきて半年が経ったが、ほとんどが知らない道だ。今日は知った道ではなくて、知らない道を歩く。夜間には施錠されるのだろう、錠前のついた入り口を持つ、遊具のない公園をまっすぐ通り抜けると、幼稚園があった。生活の場なのだから、あっておかしいという道理はないのだが、こんなところにあったのかという驚きは新鮮だった。

 流行りの外出自粛、運動や散歩で外出するのは健康で文化的な生活を送るうえで要るものだからと、ぐるりと走って、地下道をくぐって、住んでいる場所に戻ってきた。日中は読書をする。昨日さんざ雨を降らせた空は青く澄んで、さわったら手を切りそうなほどに青かった。布団に陽光を浴びせて、部屋の中で本を読んでいた。読む速度は遅い。書き抜きをしながら読み進める。琴線にふれた文章や重要だと思ったところを書きぬく。

 書きぬくときには、声に出して読む、一旦記憶して書き出す、文章を腑分けする、その三つが行動として伴ってくる。声にのせて文章を読むと、情景がありありと浮かぶ。記憶してから書き出すと、自分の目からは抜け落ちていたものが何かわかる、文章を腑分けすると、このような構造になっているのだなと腑に落ちる。


 先日、藤原帰一の「デモクラシーの帝国」の袖にあった、その本の紹介を記憶して書きぬいたことがあった。


「2001年の同時多発テロ事件とアフガン戦争を経て、新しい世界秩序が姿を現してきた。それはアメリカが帝国として世界を進めるというものだった。何がアメリカを帝国に導いたのか、帝国の下でアジアやヨーロッパはどのような局面を迎えるのか、新たな秩序を構築する道はあるのか、国際政治の展望を徹底的に追及する」


 ほとんどが赤字で直されるまえの文章がこれだ。原文と見比べてみて、記憶による文章に欠けていたのは「第三世界」という言葉だった。原文では、アメリカが帝国として振舞うなかで第三世界はどのような影響を受けるのか、という趣旨のことが書かれていた。しかし記憶になる文章では「第三世界」は登場していない。この欠如を根拠に、わたしが第三世界に無関心なのだという早急な結論に飛びつくのではないが、少なくとも書きぬいている瞬間には第三世界は意識のうえに浮上してこなかった。

 文章を腑分けすると、書き方が分かるときがある。わたしは物の配置を書くのを得意としない。けどもその意識は文章の幅を狭めるものであるから、手を打っておきたい。今日ふと目にとまった文章は、このような視線で書くと私のなかで情景をイメージできるし、読むほうの想像を豊かにすると思わせてくれた。
「アカンサス模様の金色の柱に支えられた天蓋つき寝台の向かいに、色大理石を嵌めたテーブルがあって、傍に青い絹地に刺繍をした背凭れのある華奢な椅子が並んでいた」
 なるほどと思う。XXXの向かいに、XXXがあって、そばにXXXがある、と書くと家具の位置関係が分かる。

 速読できない性質で、書き抜きをしながら、緩く読んでいる。緩く読んでいても飽きがくる。となり部屋との壁際に置かれていて、6つに区切られた、幼稚園児ほどの背丈の本棚から便箋を取った。というのも、昨日ふと文通を思い立って、中央線沿いに住んでいる友人とそれを始めることにしたからだった。一回のやり取りに数日はかかり、返信が戻ってきたとしても読んで、いったん自身のなかでせきとめて、また書くというのは冗長だ。けどもその冗長さに惹かれている。郵便制度が発達しているから、たとえば明治と比べたら速度を持った意思疎通の仕方ではあるけども。

 まわり道をしながらの読書と、行きつ戻りつの文通を好むからといって即時的な、たとえばラインを忌避しているわけではない。即時的なラインで、こころと心が触れあうときがある。静岡にいる兄から東京の弟に体を気遣う連絡がきたのであった。兄からラインが来たことはなかったので、返信に戸惑いを覚えたが、見守ってくれていることは幸せだ。

 即時的なものが開く世界があるのと同じく、緩やかな仕方にも可能性はあると信じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?