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「蘇我大王家と飛鳥」石渡信一郎

以前、「応神=昆支説」で紹介した、石渡信一郎氏の飛鳥時代に関する考察。タイトルに結論が書かれている通り、蘇我氏(として記紀に書かれている系譜)が王権を持っていた時期がある、という説を採っています。

飛鳥時代の王権に関するトピックとして最大のものは、「隋書」に遣隋使派遣時の日本の天子として、「阿毎字多利思比孤(アメノタリシヒコ)」の名があることでしょう。日本側の記録では推古天皇が送ったことになっていますが、タリシヒコは男性名です。石渡氏はここに、蘇我馬子・聖徳太子を当て、二人が同一人物であるとし、その実態は用明天皇の虚像であるとしています。

応神=昆支説を元に、日本と百済との関係を考慮に入れつつ、乙巳の変による政権交代を石渡氏なりに解釈するとそのようになるようです。石渡説は文献史からの推論、地名人名の音のつながりや、墓地や建造物などの関係性など、様々な角度から組み上げられています。

聖徳太子と周辺史に関する研究は石井公成氏やそれに対立する大山誠一氏の研究があり、その一つ一つに言及するのはここでは避けます。私が思うに石渡説の骨子としては、獲加多支鹵(ワカタケル)王の王権→蘇我大王家の王権→乙巳の変による王権移動、という最低二度の王権の移動を想定している点であろうかと思います。

特に、解釈の幅の広い聖徳太子の時代については様々な解釈が存在しはするものの、この王権交代の流れについては多くの研究者が指摘するところではあります。ただし、これらの王権の移動が、純粋に軍事的な制圧によるものか、あるいは、王権自体を回り持ちするような習慣があったのか、というように、王権の移動契機に関してはこちらも意見が別れます。

石渡説は、以前のエントリでも書いた通り、後発に引用される機会の多いものではありますが、結論ありきの引用をされてしまうこともあるように思います。本人は一定の根拠を持って主張していることなので、読み手としては十分に気をつけなければいけません。



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