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シャカフクの経歴〜0から100億までの道のり〜 第一話:学生のバイトから年商数億円まで

noteをご覧になって頂き誠にありがとうございます。シャカフクです。

以前こんなツイートをしたのですが、予想以上に反応をいただけたので、今回は僕の経歴について書くことにしました。

ぼくは今月からこのアカウントをちゃんと運用し始めているのですが、まあ何が疑われてるかって「実績が本当なのか?」ということですよね。(笑)

僕自身客観的に自分のアカウントを見て「こりゃ怪しいわw」と今更ながら反省してます笑

そもそも僕のような人間が表に出て目立ったところで大したメリットは無いんですよ。
経済的に大きなメリットも無いですし目立つことで様々な角度から狙われて損をすることが多いのが日本社会の特徴ですからね。

じゃあなんで出てくるかって。稼げてるブランディングして情報商材売りつけるんじゃねえの?みたいに思われがちなんですが、まあそうではないです。

最初に断っておきますが、僕はこのツイッターアカウントで一円も直接的な利益を出そうと思っていません。だから有料のなにかを売りつけたりすることは今後一切ありません。

で、ちょっと本題に入る前にそもそもぼくがなぜツイッターを始めたのかの理由について話させてください。これ結構聞かれるのでw

別に興味ねーよ。経歴読ませろ!って人は読み飛ばしてください。

年商100億あるのにTwitterを始めた理由

先ほども言いましたが、twitterはライフワークとして取り組んでいくつもりのためtwitterでお金を稼ぐつもりは毛頭ありません。

また本業との相乗効果も一切求めておりません。

人生を充実させるためにビジネスではなくライフワークとして取り組んでいます。

twitterをライフワークとして取り組むに至った理由は以下の3つです。

-アウトプットの機会を増やすため

-組織の1人ではなく個人としての価値を確かめるため

-新しい出会いのため

組織が大きくなるにつれて直接的に収益を上げるプレイヤーとしての仕事を
やる機会が極端に減りました。

組織がある自分には一定の価値があるのだと思いますが、一個人としての自分に価値や魅力があるのか分からなくなりました。

自分自身の価値を確かめるためにtwitterで最高に有益な発信をして評価されたいと思っています。

そのために余暇時間を利用して最高の発信をしていくつもりです。

また20代を通してビジネスばかりしていたので趣味もありませんし
周りにはビジネス関係者の知り合いしかいなくなりました。

だから問題があるというわけではないのですが、人生の幅を広げ質を高めるために、自分とは別人格の「シャカフク」として様々な人と出会えれば良いなと思っています。

やってみた結果論ですが、これ結構楽しいですw

あと、これ言おうか言わまいか悩んだのですが、ツイッターを始めるきっかけとしては、とあるインフルエンサーの方に影響力マウンティングを取られたというのが実は動機になっておりまして(笑)

別の仕事の打ち合わせでその方とお会いしたのですが、なんかフォロワーが多いことをめっちゃ偉そうに言われたんですよねw

「わたくし、これだけ影響力あるからうんたらかんたら」って。

僕的には「え。フォロワー多いことってそんな偉いことなの?」と思ったんですが、なんかめちゃくちゃ偉いみたいでした(笑)なので僕もやってみることにしましたw

ぶっちゃけ最近バカにされることとかほぼなかったんですが、久々にマウンティングされたのがちょっと悔しかったってのも正直なところです。

だから次会うときに同じくらいのフォロワーにして「あ、ちなみに僕もこのアカウント運営してるんですけど」ってさりげなく言ってやろうかなって思っています(笑)

総じて要約すると、ただの自己満です。

むちゃくちゃしょーもない理由ですみません。ただ、動機なんてこんなものです。

100億円の売り上げについて

前置きが長くなってしまってあれですが、一応誤解が出ないように。

年商100億という名目でアカウント運営しておりますが、詳細をお伝えいたしますと。

正確には筆頭株主となっている企業の総売上になります。おおよそ6割の売上は100%株主であり、その他の売上を上げている企業にはパートナーも株主に入っていたりします。

決して単一企業の1つのビジネスでの売上ではありません。

実際のところ、関係するグループ全体で見れば売り上げは100億よりありますが、グループ間取引をざっくり引くと100億ちょっとです。
連結決算をしていないのでグループ間取引も売上に計上されてしまうので。

まあこればっかりは匿名でやってるので「嘘だ!」とか言われても証明のしようはないです。

信じるか信じないかはツイートを見てご自身で勝手に判断してください。


それではお待たせしました!!

いかんせん文章能力が低いもので、前置き長くなってすみません。

ここから、実際に僕が学生時代から21歳~22歳で年商数億円を作れるようになるまでの軌跡をまとめました。

あくまで身バレを避けるため、事細かな内容や企業名などの公開は避けています。あらかじめご了承ください。

あと、ここからはエッセイ風にしました。不評なら次回から変えます。

学生時代〜起業に至るまで

99%が辛い事や苦しい事だった20代。

年商〇〇〇億の社長といえば経済的に豊かで成功者で恵まれていると思う人も多いが実際は右も左も分からぬまま魂を削りボロボロになりながら全力で走り続けた20代でもあった。

ここからは僕が20歳で起業をするちょっと前のことについて振り返ろうと思う。

居酒屋のバイトで言われた一言『お前は使えない』

大学の授業の帰り道、ふと目にした店前販促の女の子に目が止まった。
今までの人生で見たこともないびっくりするぐらいの美人だった。

その日に僕は迷わずその居酒屋バイトの募集を探し応募をした。驚くほど不純な動機だ。とびきりの美人がいたからバイトを決めた。

応募をしてから数日後、面接の日程の連絡が来た。

僕は持っている服の中で最もお洒落な服を来て、髪の毛をばっちり整えてバイトの面接にいった。

何を聞かれたかは覚えていない。でも全力で回答しアピールした事は覚えている。

120%の力を注いだ面接の数日後1通のメールが届いた。

「採用」の通知だった。

心の中でガッツポーズをした。バイトの初日がすごく楽しみだった。

翌週、いよいよバイト初日がやってきた。

最高の服にばっちり決めた髪型で自転車をこいでバイトに行った。
髪の毛のセットに時間がかかったのでダッシュで自転車を漕いだら
着いた時には髪の毛がぐちゃぐちゃだったので意味が無かった。

これではせっかくあの子に接近するためにきたのに意味がないと、お店の前でできるだけ身なり整えなおして、意気揚々と入口を開けた。

「おーよく来たね。今日は簡単な研修から始めるよ」

確か簡単なバイトの作業を教えてもらったと思う。

その日、その女の子の姿はなかった。初日は一緒のシフトに入れなかったのだろうと思った。

初回のバイト終わりに半月分のシフトを聞かれた。

正直お金を稼ぎたかったわけではなく、僕はあの子と同じ時間に入るためにありったけのシフトを入れた。

次の日もその次の日も女の子はいなかった。

これではこの居酒屋のバイトに来た意味がない!と思い、3回目ぐらいのバイトの日にバイトのおばさんに聞いた。

すると、衝撃の事実を言われた。

「系列店のヘルプの子だよ」

僕のやる気は一瞬にして削がれシフトを削りたくなった。

たださすがに初月で辞めて隣駅の系列店の面接を受けにいくわけには行かない。

絶望の中、ありったけ入れたバイトの日々が始まった。

ここからが地獄だった。

ただでさえ、バイトの本来の目的のあてがはずれ、戦意喪失しているのにそこにさらに『職場いびり』が加わったのだ。

「あんたは一番使えない」

古株のおばさんから言われた一言だった。

今までのバイトで一番使えないのだと言う。
そんなわけない!俺だぞ、と心の中で思った。

しかしその後一番使えないというレッテルを貼られてしまった僕は
何をしても評価されない。

すごく忙しい時に自分なりには人一倍頑張って、落ち着いてから少し作業スピードを落としたら

「どんだけ遅いんだよ!」

と罵倒された。

多くの厳しいご指摘を頂いたが、その中で今でも覚えている会話がある

おばさん「あんた将来何になりたいの?」

僕「お金持ちになろうと思ってます」

おばさん「は(笑)あんたがお金持ちになんてなれるわけないでしょ」

当時の僕の発言にも根拠は無かったが、おばさんも僕の全てを知っているわけではないのに、なぜ人の人生を否定できるのだろうかと思った。

今では少なくともおばさんの生涯賃金の何周分かぐらいは稼いだ。

ここで学んだことは、大切なのは他人に自分の人生の主導権を渡さないことだ。

「他人の意見で自信を喪失し現実的な道を歩むのではなく、自分ができる事を疑わず自分自身の可能性を信じてチャレンジをし続けるのだ」

月並みな言葉だが今読んでいるあなたには誰かに否定されても是非自分自身を信じて諦めずにチャレンジをもらいたいと心の底から思っている。

あなたを否定してくる人間はおそらくあなたの2%くらいしか知らないからだ。

僕はあの時の言葉に傷ついたが、だからと言って自分を否定することはしなかった。

底抜けに明るく、根拠のない自信を持っていた僕は居酒屋のバイトで一番使えないやつというレッッテルを貼られたことで「成果の見えない仕事はダメだ」と考えるようになった。

何をやっても評価されない。
何をやれば評価されるか分からない。

居酒屋のような成果が明確に見えない仕事は実際のパフォーマンスではなく、雰囲気で判断されることも多い。

そう考えた僕は居酒屋のバイトを辞め、成果が明確な訪問販売のバイトをすることにした。
そこは社員数4名の地下にある小さな訪問販売の会社だった。

訪問販売は成果が明確なので安心だと思って決めた。

要するに売ればいいのだ。

業務内容上、訪問販売は人手不足なので面接後すぐに採用の通知をもらった。

一通りの研修を受けた後、社長にこう言われた。

「お前にはトップセールスの〇〇を指導者につける。しっかり同行して営業を学んで来い」

期待の新人バイトということでトップセールスにつけるのだと言われた。
嬉しかった。期待も評価もされなかった居酒屋のバイトから転職して正解だったと思った。

そこから何日か同行させてもらい一人で営業に出る日がきた。
恐らく運悪く同行中はトップセールスの人も契約が取れなかった。

ただ、契約を取る姿は見れなかったが、僕は自信満々だった。

初日から何件も契約を取るつもりで訪問販売の現場に向かった。

自信満々でスタートした初日、びっくりすることがおきた。
訪問販売なのに緊張してインターホンを押す事ができないのである。

「いや、こんなはずはない。トップセールスの人の営業も見た。僕にもできるはずだ」

そうなんども考えてインターホンに手を伸ばすが、中から出て来た人の嫌悪感に溢れる顔を想像するとどうしてもためらってしまった。

その日の午前中は1件もインターホンを押せずに終わった。

午後になるとインターホンを押せるようにはなったが
上手に話すこともできずに一本の契約も取れずに終わった。

「ま、まぁ初日だし、こんなもんでしょ」

と、まだ甘く考えていた。

しかし翌日もゼロ件だった。
その次の日もその次の日も契約が取れない。

居酒屋のバイトは成果が不透明だと不満を持ち転職したのに、
成果が明確な訪問販売のバイトで成果が出なかった。

この時、「自分の能力は低いのでは?」と頭によぎることもあった。が、他の営業マンも大して契約は取れてなかったのでそんなものなのだと思うことにした。

しばらくして、結果の出せない僕は再度トップセールスの男性に同行して学ぶこととなった。

僕はトップセールスの男性にすごく可愛がられていた。

そもそもトップセールスと言っても月5件程度の契約しか取れていなかったわけだが。

ある日、トップセールスの男性と同行していると、

「実はさ、こうやって稼ぐんだよ」

と、獲得した契約の一部を他社に回し報酬をもらっている話をされた。
今の会社で給与をもらいながら他社に契約を回し報酬ももらっているらしいのだ。

当時、バカだった僕はその不正の暴露を何のことか理解できないまま、「へえええ」と思いつつ帰路についた。

次の日バイトにいくとトップセールスの人がいない。

僕「社長、〇〇さんはどうされたんですか?」

社長「あいつは不正をしていたからクビにしたんや!」

僕に不正を教えてくれた翌日にクビになっていた。

そこから1ヶ月ぐらい別の人に同行しながら営業をした。
相変わらず結果を出す事はできなかった。

その後、このバイトで信じられない事に巻き込まれる。

トップセールスの男性がクビになって1ヶ月ぐらい経ったころ
会社の懇親会という事で食事会があった。

そのころにはバイトは僕を含めて2名になっていた。

もう1名のバイトは俳優を目指しているイケメンの年上で社長のお気に入りだった。

2次会で社長は全員を鎌田のスナックに連れて行ってくれた。

人生で初めてのスナックだった。

そこでお酒を飲み、みんがいい感じになってきたころ、酔っ払った社長に衝撃の一言を言われた。

「お前、一緒に不正やってたんやろ!知ってるんやぞ!」

酔った社長は僕をスナックで激詰めし始めたのだ。

僕は動揺した。

もちろん不正なんてしてない。それどころか契約すら取れてない。

なのに不正をしている犯人だと激詰めされている。

恐怖に震えた僕は泣き出してしまった。最悪の経験だった。

結局、2つ目の僕のバイトは犯人扱いされてクビになるという結末となった。

多分人生で一番辛い時期だったと思う。

そして、ここから僕の人生の快進撃が始まる。

今、思えばめげずに諦めなかったことがキーポイントだった。

1つめのバイトで「一番使えない」
2つめのバイトで「不正をした犯人」

普通の学生だったらトラウマになってもいいところだ。

ただ僕は底抜けに明るかったし根拠の無い自信に溢れていた。

そしてめげずにまた営業のバイトの申し込みをした。
バイトルドットコムで申し込みをして面接にいったところ
契約社員しか受け付けてないと言われた。

学生だった僕は迷ったが契約社員でもいいですと回答し入社した。

そこはKDDIの回線の訪問販売で日本一の会社だった。

初日、僕はマネージャーの営業に同行させてもらった。
その日が僕の人生の大きな転機となる。

マネージャーは1日で5件もの契約を獲得したのである。
でも、このぐらいは普通だという。すごすぎると思った。

そもそも前職で数カ月間1件の契約も取れなかったのである。
また会社の他の営業マンもろくに契約が取れていなかった。
※当然だが前職の会社は今では倒産している。

トップセールスマンだって月間で5件だったのに
このマネージャーは1日で5件もの契約を獲得した。

3日間同行させてもらった後にトークスクリプトをもらった。

マネージャーから教えてもらったことは、

「トークスクリプト通りに話せばいいから」だけだ。

その会社の教えは

「同じ髪型同じ服同じトーク同じジェスチャー」

をして同じ件数回れば同じ結果が出るというのが会社の教えだった。

今でも「すごく優秀な人材教育法」だと思う。

成功している人と同じ行動をすれば同じ結果が出て同じように成功できるはずだ。

もし今のあなたが理想と現実にギャップを感じているとしたら、
理想の生活をしている対象を見つけて徹底的に真似をするべきだ。

全てを同じようにできれば同じような結果が出るはずである。

これは今でも非常に大切な成功法則の1つだと思っている。

トークスクリプトを丸暗記しただけの僕の営業初日がスタートした。

正直、現場まで行くとまた不安が押し寄せてきた。

常に自信満々で生意気だった僕は意気揚々と電車に乗り現場まで向かったのだが、スタート直前で

「もし前職のように結果を出せなかったらどうしよう?」

と心配になってきた。

今思えば、自信満々で生きてきた僕も、短期間で色々重なって自分の自信が揺らいでいたのかも知れない。

しかしその心配も杞憂で終わる。
なんと初日1日で4件もの契約が取れたのである。

数百名いる社員の中でもその日のトップ30に入る結果だった。
初日から契約が取れた僕は「センスがある」という評価をされた。

人生で初めて明確な成果を出し他人から仕事で評価をされた。

めちゃくちゃ嬉しかった。
現場から会社に戻ると、マネージャーに褒められて、帰り道にガッツポーズしたのをよく覚えている。

その後も順調に契約は取れてその会社ではそこそこの結果を出した。

が、学生だったこともありその会社はそのあとちょっとしてから退職し学生に戻った。

随分、単位を落としたが良い経験になった。

何よりも良い経験だったのは
「結果は環境次第」
だという事が学べたことだ。

これを読んでいる人に覚えておいて欲しいのは、

「環境が変われば基準値が変わり大幅に結果が変わる」

ということだ。

自分の周りの5人の平均年収が自分の年収という言葉があるが、
あながち間違っていないのではないか?と思う。

自分の周り=環境によって基準値が変わるからだ。

僕はこの出来事以降周りの人の影響で基準値が変わり、大きく成長できた。

話を戻すと人生を変えてくれた訪問販売の会社を辞めた僕は、その次もまた営業のバイトを選んだ。次は電話営業の会社だった。
タウンワークを見て面接にいった会社だ。

IT系の広告代理店だったが、電話営業の事業を立ち上げるのだという。

経験を買われて採用となった。

その会社では僕を含む7名のバイトが雇用された。
そこから7名は研修先の100名規模の電話営業の会社に研修に行った。

前職の経験と圧倒的なトークスクリプトがあった僕は研修先の100名の中でも1番を取った。

しかも出勤日数は2番の人の半分しか出ていなかった。

圧倒的な時間対効果で結果を出せたのである。

しかし給料は20万程度だった。

学生で10日ちょっとしか出ていないにしては、20万円というのは良い給料ではある。

しかしながら、100名の営業のトップでも20万しか稼げないのかという事実に僕は絶望した。

時給で雇われていたのだからよく考えれば当たり前である。20万円もらえたのも1位になったキャンペーン賞金が12万円入ったからだ。

時給自体はたしか1,400円くらいだったと思う。

ここで僕は思った。

「ボーナスがもらえたからよかったものの、他の人の半分の日数で倍の売り上げを立てた。多分100万円以上貢献してる。それなのに周りとほぼ変わらない時給しかもらっていない。ボーナス差し引けば2位の人より報酬は低くなる。絶対におかしい!」

当時バカだった僕は20万しかもらえなかったことに絶望していた。

そして視野の狭かった僕は営業の仕事では年収2000万円ぐらいまでにしか
なれないのではないかと思った。(実際はそうではない)

そこから、他に稼げる方法はないか?考え始めるようになった。

営業の仕事は1対1の繰り返しだから限界がある
最近流行りのパソコンは1対多数だから限界は無いし
ITは成長分野だからパソコンを学んだ方がいいかもしれない。

そう考えた僕は大学入学時に買ってもらったっきり開いてなかった埃塗れのPCを開いた。

「決めた!パソコンを極める」

これが僕がITの道に入った瞬間だった。

まずITについて詳しい人を検索して探した。
詳しくないのだから誰かから学ばないといけないと考えた。

話は逸れるがここであなたに伝えたいのは「師匠」についてだ。

師匠/メンター/先生/アドバイザー

必要なのか不要なのか様々な意見を持っている方がいると思うが、
僕の意見を伝えておくと「絶対に持て」だ。

大切なのは「人の見極め」と「何を求めるか?」である。

求めることは儲けさせてもらうことではない。

ヒントをもらえればラッキー
近くで言動を見ることができて得られるものが一つでもあればラッキー

という考えでいよう。

またある程度の成功者はお金だけでは動かないし、
といってもタダで時間を作ってくれるかというとそれも難しい。

それでも探せばチャンスはあるはずだ。そのチャンスを掴もう。

では僕の場合はどのようにチャンスを掴んだのかお伝えしていく。

人脈ゼロだった僕はネットで検索をして良さそうな人を探した。

そこであるサイトを見つけた。六本木ヒルズに住んでいる社長のサイトだ。
断っておくが今も六本木ヒルズに住んでいる人ではない。

そのサイトで新しい事業を立ち上げるインターン生を募集していた。
その社長は当時は一世を風靡するカリスマ社長だった。

すごい格好いい一流のオフィスを構えて六本木ヒルズに住んでいた。

ここから六本木ヒルズのカリスマ社長のインターンとしての生活が始まる。
僕が起業するきっかけとなった場所だ。

学生では考えられない煌びやかな世界を見せてもらった。

今では六本木ヒルズ以上に高級な家が山ほどある事は知っているが、当時は六本木ヒルズは日本の王者しか住めない一番すごい家だと思っていた。

面接のために初めて入った六本木ヒルズは当時の僕は見たことも無いセキュリティーだった。

入口のインターホンで○○号室の〇〇さんお願いしますと伝えた

そもそもマンションの入り口のインターホンでは部屋を鳴らすこともできなかった事に驚いた。

大きなフロントにコンシェルジュが居て何枚もの自動ドアを通ってエレベーターへ、初めて入った六本木ヒルズレジデンスの感動は凄まじいものだった。

「この世にこんな家が存在するのか!?テレビで見る豪邸よりすごい...」

信じられないほどの緊張と不安でいっぱいになっていたことを覚えている。

エレベーターで部屋の階層まで上がってインターホンを押した。

社長が出てくれた。「今、開ける」と。

ドアが開いた。

広い玄関を越えると僕の目の前には見たこともない広さのリビングと東京を全貌できる景色が広がった。

部屋のサイズは150平米~200平米ほどで家賃は200万弱だったかと思う。

お風呂は2つトイレは3つ住んでいる人の数よりも多い。どうやって使うのか?と思った事をよく覚えている。

僕の住んでいたアパートは一番狭い寝室よりも狭かった。
凄まじい格差だ。六本木ヒルズの部屋と比べたら僕のアパートは犬小屋だった笑

それから社長の自宅でインターン(修行)の日々が始まった。

今では一切連絡を取っていないが社長には今まで見たことも無い世界を見せてもらえて今でも本当に感謝している。

インターンの日々の詳細は割愛するが、様々な世界を見させてもらった。

様々な業界の経営者が集まる六本木ヒルズでのホームパーティーにも参加させてもらったし、学生では絶対に入れない西麻布や六本木の豪華な夜も経験させてもらった。

一番想い出に残っているのは海老蔵事件の後に海老蔵ビルで飲ませてもらった日だ。

高級なシャンパンにモデルのような女性が何人も集まり浴びるほどお酒を飲んだ。

何から何まで経験させてもらった社長からもらった最大のアドバイスは

「とりあえず毎日ブログを書いた方がいいよ」だった。

正直これだけ華やかな世界を見せられた後のアドバイスとしてはめちゃくちゃ意外だったが、何が何でも早く結果を出したかった僕は、言われるがままそこから半年間休まずブログを書き続けた。

社長や社長の周りの方々が紹介してくれたこともありブログのアクセスが右肩上がりに上がった。

ある日ブログに1通のメッセージが来た。

「ブログのデザインとアドバイスをしてもらえないか?」

地方で年商30億円の会社を経営する社長からのメッセージだった。

デザイン料5万円をもらい知り合いに1万円でデザインしてもらった気がする。

そして超生意気だった僕は社長のブログのダメな点を上から目線で指摘しまくった。

嘘のような話だが社長のブログの指摘や否定をし続けていたら、ネットショップも立ち上げたいからコンサルティングをして欲しいという依頼を受けた。

今だから言えるがネットショップの運営なんて少し手伝ったぐらいで素人だった。

でも社長よりは詳しかったのでプロだから任せてください、と断言した。

これが僕の起業のきっかけとなった。

今では絶対にやらないができるか分からないことをできると言って仕事を獲得したのだ。

ただし当時の僕は100%できると確信していた。根拠はない。

そこからはわらしべ長者のようにコンサルティングの獲得が出来た。

「20歳で年商数十億円の会社のIT領域のコンサルティングをしている面白いやつがいる」

という触れ込みで紹介されると受けが良かったのだ。
そして僕は愛嬌が良かったしビジネストークが上手かった。

年商数千万円の企業から年商数百億円の上場企業まで様々な会社と契約を結ばせて頂いた。

偶然獲得できた年商数百億円のコンサルティングが年間契約だったため(3年ぐらいやった)

その実績で新しいコンサルティング先の獲得は簡単だった。

問題は7割以上の企業で大した結果を出せなかったことである。

考えてみれば当たり前で、まずPC歴1年半程度なのでそもそも知識も実力も明らかに不足していた。

それに加えて社長のお気に入りの21歳の若造がコンサルティングという名目で月に1~2回来て指示を出したところで誰も言う事は聞かない。

もちろん表面上は言う事を聞くが僕の指示は後回しになって実際は進まない。

7割以上の会社で大した結果を出すことができなかった。
すごい結果がでた会社も一部あるにはあるが。

契約内容は月数万の契約もあったし年間1000万円を越える契約もあった。

正直普通のサラリーマンの数年分の給料をもらっていたわけである。
興奮と同時に手に汗握る緊張感が常にあった。

結果的に、僕の場合は頂いた報酬に見合う成果を出せなかったことも多かった。

それは今でもすごく反省しているしもし叶うならいつか役に立ち挽回したいと思っている。

そして今なら100%役に立てる自信がある。

ただこの記事を読んでいるあなたにアドバイスをするとすれば、自分を過大評価して「できる」と断言をして仕事を受けて報酬を得る

という方法も全力で帳尻を合わせるなら有りだよという事だ。

僕のように結果が出せないことが多いと良くないが

もしかしたらあなたが得意とするジャンルの知識は、そのジャンルに疎い人にとっては価値があるかもしれない。

自分を追い込むことにはなるし結果を出せなければクレームも来るが、最悪返金すればいいのだから、そういうチャンスがあれば一歩踏み出してみるのはどうだろうか?

自分を追い込めば追い込んだだけ精神的にも疲弊することになるが大きな成長をすることもできる。

仮に今、会社員だとしてビジネスを始めたいという人に僕がおススメするとすれば

1.本業でスキルを伸ばし結果を出す
2.本業で伸ばしたスキルを発信する
3.そのスキルを求めている企業からのオファーを呼び込む

というステップだ。月に1回アドバイスで10万円~程度の契約は簡単に取れるはずだ。

話を戻すと運よく?軍資金(多分3000万くらい)を手に入れた自分自身を超過大評価をしている当時の僕は、

「他人の会社をコンサルティングをするならば自分の会社をコンサルティングして伸ばした方がいい」

という考えからコンサルティングの獲得をストップして事業を立ち上げることにする。

今、振り返ると考えの甘さに恥ずかしさしかないのだが当時は自分にすごく自信があった。

そこからいろんな事業に挑戦した。

①名刺制作事業 

みんな名刺を作るから良いだろうと思って印刷会社に外注するだけの事業をスタート。
全然受注が取れないし取れても儲からないのですぐに撤退。

②イベント事業

そもそも友達少ないのにイベント事業をスタート。
タワーマンションに住んでる人に部屋借りて開催するも大ゴケ。
2~3回ぐらい開催したはずだが全部赤字だから撤退。

③ホームページ制作事業

大して受注もできないし受注したものをちゃんと納品できない
当時はホームページ制作のプロセスも分かっていなかったのと、
クライアント管理もできなかったので色々注文と修正がいっぱい来て、
納品まで上手くいかずに終わる。←一応、納品はした。

何か月もかかって精神的にも疲弊してこれじゃ無理だと判断

④SEOサイトアフィリエイト

全然上位表示されないで終わる。

ちなみに今はSEOで7桁は収益発生している企業が何社かグループ内にある。

失敗の連続だった。当たり前のことである。

1人しかいないのにいくつもの事業を成立させられるわけがない。

話は逸れるがお恥ずかしい話

つい数年前まで事業数や会社数が多い方が安定するし格好いいと勘違いしていた。

今では色々と同時に着手して上手く行くわけないって分かるのですが、
当時はこれもやろうあれもやろうとしてた。

で、人に会うと「今やってる事業はこれとあれとそれと・・・」と色々説明する

みたいな勘違い野郎だった。

ここでの学びは1日は24時間しか無い事とビジネスは1人で何個もやって
成立させられるほど甘くないという事だった。

絞ることが大切だし盲目的にスタートしては行けないという事も学んだ。

重要な点なのでまとめると、

「スタートは伸ばすべき強みを一つに絞って特化すべき」

という事だ。

副業の時間だけでスキルを伸ばすのは簡単なことではないから
スキルアップと考えて本業を頑張ることが一番だと思う。

ただ、そんな中。上手くいったのが海外から商品を輸入するビジネスだ。

このビジネスは超ラッキーから生まれた。

運が良い事に偶然出会った素晴らしいシステムと仕組みを持っている人が
資金不足で収益の最大化ができていなかったのだ。

当時やっていた輸入転売ビジネスのスキームは以下の通りだ。

1.独自のシステムで世界のアマゾンや世界の様々なオークションサイトと
日本のアマゾンとヤフーオークションで差益のある商品を抽出する

2.人件費の安い海外の外注を使ってシステムで抽出したリストを一定のルールを元に精査する

3.日本のスタッフで精査したリストを再チェックを掛けて問題が無ければ仕入れて販売をする

今では普通なのだろうが、当時は画期的だった(はず)。

このビジネスは数ヶ月で月商1000万円ぐらいまで拡大をした。
ただ在庫を抱える必要があるのと(たまに売れない商品も出てくる)
単純作業に日本人スタッフも疲弊していくので拡大をストップしてビジネスモデルを変えた。

日本人スタッフが疲弊してくので商品リスト全ての仕入れと販売ができていなかった。

そこでビジネスモデルをフランチャイズしていくことにしたのである。

それがヒットして利益が10倍になった。月間の営業利益が初めて1000万を超えた。

1.商品の差益を調べるシステム
2.精査済み商品リスト
3.具体的な作業プロセスの全ての資料

を新規事業をやりたい法人や個人事業主を中心にフランチャイズをした。

当時は今よりもどんぶり経営をしていたので未だに詳しく分かっていないのだが、収入源は以下の通りだったと思う。

1.システム利用料
2.システムで検索して仕入れでクリックする時のアフィリエイト報酬
3.商品リストはランク分けして社数限定で販売をする
4.出た利益の〇〇%をこちらの報酬として受けとる

このビジネスは案外に好評だった。やれば結果が出るのだ。
一定数の紹介も得ることができたし多少個人の営業マンに新規開拓営業の外注もしていた。

フランチャイズ先は輸入に限らず輸出や国内→国内の転売もやっていた(はず)。

この後に出てくるビジネスは立ち上げも自分自身でやったので詳細まで把握しているが、
このビジネスに限っては立ち上げを僕自身がやっていない。

やったことは

1.すごい優秀な人間と出会う
2.全力で口説いて雇用をする
3.資金リスクだけは全部背負う

という事だけだ。

今ならどんぶり勘定で丸投げモデルではビジネスはしない。
もし仕入れをミスれば資金は一瞬で消えるからだ。

フランチャイズが上手くいったのも本当にラッキーだった。

ただし、もしあなたが何かしらで報酬を得ることができたのであれば、

「伸び悩んでいる優秀な人を見つけて口説き資金を出す」

というのはすごく良い方法である事は間違いない。

お互いにwinwinの関係を築くことができるし
上手くやれば時間に対してリターンが大きくなる。

もしチャンスがあったら取れるリスクの範囲内で積極的にチャレンジしてみて欲しい。

ちなみにこのビジネスは長続きせずに2年程やって終わった。

と、いうことで、第1話はここまでとさせていただく。

2話では以下の話を書く予定だ。

2話 急成長期~年商100億を超えるまで
2-1.インフィード広告バブル「3000円が数分で10000円に」
2-2.更に利益が10倍となる短期的にビジネスを劇的に伸ばした〇〇〇〇〇
2-3.代理業(仕組みの一部)からの脱却~仕組みの一部じゃなくて仕組みを作るの罠~
2-4.第二次インフィード広告バブル
2-5.マーケティングを強みに多角化と買収

1話の評判が悪過ぎたら物語風に書くのはやめることにする。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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