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そもそも博報堂を辞める必要はあったんですか?辞めなくても社会派クリエイターはできたのでは?#2

妻「前回は、3.11の東日本大震災をきっかけにクリエイターとしての方向性が大きく変わったというお話でした。具体的には、被災地で支援団体を支援するCM制作を始め、その活動の中で、被災地だけにとどまらない社会全体の課題が多数あることに気づいた、というところまで聞きました。
その後、どうなったのですか。」

夫「はい。東北の被災地で日本全体の社会課題に気づいたことと、もうひとつ自分を変えたきっかけとなったのが、福島原発の事故のことでした。 

 僕は、新人コピーライターだった時から大手電力会社にはお世話になっていました。長尺のラジオCMをたくさん書かせてもらったり、だいぶ大人になってからは、CMのキャンペーンなども担当させてもらいました。原子力と火力、水力をミックスしたエネルギー供給の大切さを啓発する広告や、福島よりも前にあった原発トラブル後に節電をよびかけるCMなどもつくりました。

 当時は僕も原発はCO₂を出さないし、エコだと思っていたので、何ら疑問もなく仕事に臨んでいました。同期のコピーライターが「自分は原発に反対なので、この仕事はできない」と言って仕事を断っているのを傍で見て、「え、何で?」という感じでした。

 しかし原発事故は起きてしまった。福島の一部が10万年もの間、放射能により、立ち入ることのできない地域になってしまった。汚染されていない地域も風評被害にあい、大変なことになってしまった。「あれ?原発ってエコだったんじゃなかったの? 科学の力による安心安全で効率的なエネルギーじゃなかったの?」という疑問が頭を離れなくなりました。

 僕のふるさとは、福島です。育ちは千葉なんですが、父も母も福島出身のため、夏休みやお正月のたびに福島の親戚の家に入り浸っていた少年時代でした。おじいちゃんとおばあちゃんのいる福島。農業を営むおじちゃんちに泊まり、いとこに釣りや魚のつかみ方を教えてもらったり。冬は雪で遊びました。そんな自然との関わり方を、福島と、福島の人たちが教えてくれたんです。

 そのふるさとが、大変な被害にあってしまった。私は無邪気にCMを作ってきた自分を責めました。

 CMをはじめ広告は、社会的な影響力がとても大きなものです。普段目にするCMとかポスターとか、そういったわかりやすいアウトプット以外にもPRなどで、どう世論を誘導していくか、ということも考えるわけです。僕はいつかメディアリテラシーと同様に広告リテラシーについても、もっとみんなは知るべきだと思っています。いろんな方法で生活者にアプローチするわけです。それは自由経済なので当たり前のことだし、商品を売りたい、イメージを変えたい、ブランド力を高めたい、そう思う企業のために様々な方法で広告をする、それは当然のことなのですが、それを見る側の生活者側も、そういった送り手側の作戦をきちんと読み取れる力を持つべきではないかと思っています。そうじゃないとフェアじゃない」

妻「私もテレビ番組をつくっていたので、その意見に共感します。メディアリテラシーとか広告リテラシーの広がりがもっと必要かと思っています。話を3・11の震災の頃のことに戻します。福島でもチャリティCMを作っていたと思うんですが、その制作の過程で印象に残っていることはありますか。」

夫「飯館村に、被災したペットを支援する団体について取材・撮影に行ったときのことです。おじいちゃんと老犬が一緒に暮らしている家族があったのですが、飯館村からは避難しないといけなくなり、おじいちゃんは犬をなくなく手放さなければならなくなりました。私は、オリの中に、犬を押し込む飼い主のおじいちゃんの姿を撮影させてもらいました。

 犬は、おじいちゃんと別れることがわかっているようで今まで聞いたことのない鳴き声をしていました。おじいちゃんも「しょうがねぇんだ」と言いながら犬をオリに入れている。その様子を撮影していて、ふと気づいたら自分の頬に涙がつたっていることに気づきました。『どうしてこんな不条理なことが起こるんだろう。』原発事故という人為的な災害のために、犬とおじいちゃんの暮らしが突然変わってしまった。心の奥底からこみあがってくるものがありました。

 こんな風に、被災地に通いつめる中で、様々なことを考えました。
原発は福島県にありますが、福島県の電力のためではなく、東京のために作っています。なぜ、そうしなければならないのか、構造的なことも気になり始めました。大量生産・大量消費の経済を動かすためには、安価なウランを使う必要がある。でも、危険があるから、原子力発電所は田舎につくる。その地域にはお金を払い、大量に電気を作って、都会で大量に使う。この経済システム自体が何か変だぞと。

こうして博報堂に勤めながら、震災支援の活動を続けていましたが、震災支援以外のCMの依頼も増えていきました。そこで、知り合いのクリエイターたちがボランティアで参加してくれて、NPO法人を立ち上げることになりました。それがNPOを広告支援するNPO法人Better than today.です。

 このNPOでは、誰もが居場所と出番のある社会にしていく社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)の考え方にふれて、それを伝えるためのWEBメディア「Le toit」を立ちあげました。(現在は休止中)

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letoit.net/

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(↑)妊産婦と女性の命を守るNGO「ジョイセフ」の取材でザンビアに滞在。母子保健健康委員SMAGの活動を現地で広めるために歌を作りました。当時は、金髪でした。


(↑)元会社の尊敬する先輩がやっているすごいプロジェクト。林業→畜産業→農業、そして消費をつなぐサステナブルな仕組みを作って実践している。その循環の仕組みを歌のリレーで表現しました。なにげに、いとうせいこうさんもご出演!


若者と政治の世界を近づけるために「迷える有権者.com」というサイトをつくったり、応援したいNPO、NGOや団体のCMもつくりました。

(↑)求婚する行為を通して各党の政策を伝えるという映像です。ボランティアの学生と俳優とで作りました。よく選挙中に各政党の政策を比較した表があったりするけど、どの党も当たり障りのないことしか書いていないので、政党を人格化することで、各党の本当のところを伝えられないかと思って作りました。

 また、生きづらさを抱えた人たちのどんな悩みにも専門家が答えてくれる電話相談『よりそいホットライン』の電話相談がパンクしそうだという話を聞いたので、電話相談と並行してWEBでも相談できる仕組みを提案し、Moyatter(モヤッター)という相談サイトを企画し、実際につくることになりました。ボランティアのエンジニアと博報堂の仲間とでつくりました。あえて相談のやりとりを公開することで、孤立しがちな生きづらさを抱えた人たちに対して『悩みを抱えているのはあなただけじゃないよ』と思ってもらえるようなデザインにしました。

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https://moyatter.jp/


妻「博報堂とNPO法人運営の両立は大変でしたよね。」

夫「博報堂とNPOの仕事は全く別々でやっていたので、両立が難しくなってきました。当時、車や不動産などの商業広告を担当していましたが、それまでに25年間も商業広告を作ってきた専門のスキルがあることと、これまで話したような震災後の考え方の変化もあり、残りの人生は、社会的な課題をより多くの人に伝える仕事に注力した方がいいし、自分も気持ちがいいと思いました。そこである時期から『僕はこれから社会テーマ専門でやらせてもらいます!』と社内で宣言して、ソーシャルクリエイティブプロデューサーという肩書きで仕事をさせていただくことになりました。それまでやっていた民間企業の広告から降りてしまったのです。その節はたくさんの関係者の方にご迷惑をかけました。」

妻「一般の民間企業で、そんな希望が通るのですか?」

―「経理の妻が社会の広告社について聞いてみた。③」へ続くー

社会の広告社WEBサイトはこちらから 

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