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嫌な奴にバチは当たらない

「因果応報」
人はよい行いをすればよい報いがあり、
悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。

よく、子どもが何か悪いことをした時に
「バチがあたるよ!」みたいなことをいう場面があるけど、このバチっていうのは因果応報のニュアンスに似ている。

バチ当たりというのは実際本当にある。
嘘みたいなほんとの話なんだけど、
小学生の頃だったか家にあった御守りを
開けてみたことがあった。
御守りの中を開けてはいけない、バチが当たるよと言われていたから、背徳感的なものを感じながら開けて(開けるな)中を見た(アカン)のを覚えている。
なんとなく凄い物が出てくるような気がしていたから、開けてみたら薄っぺらい木みたいなものが入ってるだけでがっかりしてこっそり元に戻しておいた。完全犯罪。

すると次の日の朝、登校していると自分の肩に
鳩の糞が降ってきた。
驚きより笑いが勝った瞬間だった。
鳩の糞があたるなんて人生初で、
「こんな漫画みたいなことあるんやな!笑」
とその時は思っただけ(呑気)だったんだけど

さらにビックリしたのが、
その日の下校途中。本日二回目の鳩の糞ヒット。これはさすがに偶然ではないと悟る。
その日初めて
「御守りのバチが当たった……。神様ってほんまにおるんやわ…」と思った。
あれから10年以上経つけれど、あれから鳥の糞に当たったことは1度もない。

どうやらバチが当たるというのはマジらしい。


でも、22年間生きてきてさらに
分かってきたことがある。それは

「嫌な奴にバチは当たらない」

ということ。

私の友達は、
何か悪意をもって嫌なことをしてきた/言ってきた相手に対して
「ああいう人はいつかバチがあたるわ。」
みたいな事をよく言う。

だけど私は今まで
「”ああいう人”がバチに当たっている」
ところを見たことがない。

嫌なことをされても、泣きつけば勝手に相手に仕返しをしてくれるドラえもんは私たちにはいない。
嫌なあいつはきっと今日も変わらず美味しいご飯を食べて暖かいお風呂に浸かってぐっすり眠りにつくし、鳥の糞も当たらない。
「あの時の自分、良くなかったな。」なんて
思い返して反省してくれるそんな都合のいい事もまあまずない。そんな相手なら仲良く出来ている。

ネットでも、
昔私をいじめていた人は今はお母さんになって幸せそうに暮らしてて胸糞、みたいな話がある。

傷ついた側は覚えていることはあっても、
傷つけた側は大抵覚えていない。

そういうもんである。

だからこそ
「いつか当たるバチ」なんかになんの意味もないと私は思う。
第一、他人の不幸を願ったところで幸せにはなれない。

それに、相容れない相手を

「いつか痛い目見るわ」「可哀想な人やわ」

みたいな言葉で片付けてしまうのも
決して褒められたものではない。

私たちはもっと話をしなければいけない。

話せば分かるなんて簡単なものではないけれど例えどれだけ嫌な人でも
「その人にとっての正義と
自分にとっての正義は違う」
ということを忘れてはいけない。

私の恩師の言葉をかりるならば、
「優しさの正体は想像力」だから。

学生のうちは相容れない人間と距離をおけば済む話だけど、社会人になるとそうはいかない。
理不尽でめちゃくちゃな人も
その人なりの正しさで生きている。

でも、それをわかった上で
良くないことは良くないと伝えたい。
例え嫌われても、誰かが言わなきゃいけないことを自分が言ったということに価値があるから。

だからこそ、「いつかバチがあたるから良い」
という考えで終わらせるのは違う気がする。

まず、その人自身のことに思いを馳せること。
育ってきた環境、立場、
考え方、生きづらさ。

それと1番気をつけたいのは、
自分の中の正義感で他人を殴らないこと。

これが1番難しい。
自分の軸がしっかりしている人ほど
他人を言葉でボコボコにしてしまう。
「論破マン」ってやつである。
これは私への自戒でもある。

①まず相手の話を最後まで聞くこと。
②「君の言い分もわかる」という
譲歩の気持ちをもつこと。
③その上で主張を述べること。

経験上、この3つさえ押さえておけば、
まず厄介なことにはならない。
もちろん話し合いにならないこともあるけど、
分かり合えないということを分かり合えたということにも価値がある。
2回目になるが、私たちはもっと話をしなくてはいけない。

人と人がぶつかる時は、大体
どちらかがどちらかの正義で相手を殴った時だから。