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石打ちの刑

イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 
ヨハネによる福音書8章より

この聖書の物語に出て来るのは、姦淫の女だ。当時のユダヤ教の世界では、姦淫は重罪であった。
この聖書の個所は、伝道集会、講演会などではよく用いられる個所であると思う。

だが、カトリック教徒、プロテスタント信者とどちらからも排除された私の個人的な考えだが、彼らは勘違いをしていると思う。
曾野綾子の本に「カトリックは、告解の義務があるから、云々」と書かれていたが、「告解をすると赦されるから何をしてもいいんだ」みたいな信者がいるのを多く観てきた。
プロテスタント信者でも同様だ。

さてさて、私が何故に、この聖書の個所を思い浮かべたかと言うと、今ネット界隈をにぎわしているColaboという団体。表と裏に、日本と韓国のキリスト教の香りを感じるからだ。

理事には、シールズの奥田君のお父さん、奥田牧師がおられる。

こちらの牧師も、Colaboの支援者であった。

仁藤さんという女性について、調べていくと、私のキリスト教徒嫌いがハッキリとしてきた。

関野和寛牧師もか。。。 私は、モームと同じく、キリスト教徒が嫌いだ。

その、仁藤氏の言う、いい大人と言うのが、森康彦牧師とか、奥田君のお父さんとか。。

これを言うと極論かもしれないが、仁藤さんも案外、被害者側かもしれないな。 家庭に問題ありで家出。身体でお金を得る。 その時に出逢ったのは? シールズの奥田君のお父さんも、法人の関係者。 日本のキリスト教団体は、色々と問題がある。

仁藤 キリスト教 で検索すると、かなり出て来る。 シールズの奥田君のお父さんとか関係者だしね。 問題なのは、日本人のキリスト教関係者には、ヨハネの福音書8章の姦淫の女に対する真の意味を伝える人が1人もいない事。 

これからは、もう罪を犯してはならない。

イエス様が伝えたかったのは、これではないのか?
罪が赦された!ハレルヤ!でお終い。覚せい剤やら、性交渉だの、それまでと同じようにしないように、と。

国民の税金を使っての福祉政策は、戦後の社会党のクリスチャン政治家が勧めてきたことでもあった。

戦前の教会、寺などは、行き場のない結核病患者を受け入れてきた。それを長谷川保氏が頑張って、国の保護対象としてくれたこと。それは素直にすばらしいことだと思う。

ただ、現代のキリスト教関係者が仁藤氏の作る団体を生み出してしまったのではないかと思えてならないのだ。

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