「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」の補足

(以下の文章はtwitter上にて「『短歌は青松輝を飽きさせてはならない』の補足」①②として画像ツイートしたものと同じ文章です。引用をするためにnoteへ上げてほしいという声をいただいたので記事にしました。)

・実績とそれに対する評価・報酬の話を自分ではしていたつもりだったけれど才能と歌の別れみたいな文脈での解釈をされているっぽくて手続きを完全にミスしてしまったと思う。
・整理すると、個人としては「(短歌をやめたいと青松輝が思っていない限りは)短歌をやめないでほしいという個人的な感情があり青松輝には才能があるとも思っている」。それとは別に歌人全般に思っていることとして「短歌やめたければやめた方がよいですよ(才能の有無に関わらず)」というのがある。
・ただnoteでは「青松輝がもっと評価されていてもいいなという実績を出しているのに、そして評価している人間が潜在的にはいる(けれど文章やリツイートなどの形では触れていない、という印象を僕は持っている)のに、彼がそれに見合うだけの評価・報酬を得られていないのは我々の怠慢なのではないか」という話をしたかった。
・短歌をやめたいひとはやめた方がいいけれど、わざわざ短歌をやめたくなるような状況を僕たちが作ってしまうのもまたおかしな話だと僕は思う。だから僕は青松輝のこれまで実績に対して、あるいはこれからも面白い文章・作品を読みたいという欲望から、noteの文章を書いた。僕自身が反応があればやりたいと思うしなければやらなくてもいいかなと思ってしまうと思うので。
・実績と評価の話をするための手続きとして「ここで僕が言いたいのはみんな短歌を辞めないでほしいみたいな感傷ではなくて~」という文章を配置したのだったが、その前後の文章や、特に「QuizKnockのライターになったということをTwitterで見かけて『取られた!』と思った。」という(青松輝の人格を考慮せずあたかも「短歌」の所有物であるかのように書かれた)文章が、あるいは「才能と歌の別れ」という文脈に立った文章だと読まれ、あるいは青松輝や短歌が何かの所有物であると考えることに対する問題の指摘があった理由であるのだと思う。その点について言葉足らずであったこと、ないし至らなさについての指摘は甘んじて(甘んじるまでもなく)反省したい。
・そして僕の文章の一番の問題として、勝手に「短歌」を共犯者にしてしまったという点が挙げられるだろう。
・自分の感情を勝手に「短歌」という主語で語るなというか、個人の責任は個人で回収しろというか。実際、僕の書いた文章の主語というのは最大限まで広げても「青松輝を評価しているがそれをあえて表明しはしない、短歌に関わる人々」といったところまでにしかならない。この点についても至らなさを反省します。
・それとは別の問題点というか僕が思ったこととして「不動産業者がいるのに『地球は誰のものでもない』って言ってもしょうがないのでは?」ということがある。短歌に置き換えると、「短歌を所有しているかのように『短歌の歴史とはこれこれである』『これが短歌(=名歌)である』ということを決定して歴史に残すことのできる人物?集団?というのは存在していて、それが正史として語られているという事実がある。それに対して『短歌は誰のものでもない』という発言はいかほどの効力を持ちうるのだろうか」という趣旨になる。急いで付け加えると個人的なスタンスとしては僕も「短歌は誰のものでもない」と思いたい/半ば信じているし、誰かに対して「短歌をやめないでほしい」と伝えてしまうことの暴力性(なんの権利があってお前が俺の行動を制限するんだ、のような)が存在すること、今回の僕の記事が半ば暴力性を孕んでしまっているであろうことも(十分なものではないかもしれないけれど)意識している。
・そのような暴力性に対するせめてもの担保、というかただ無責任に「やめないでほしい」という(言うだけであれば三秒で終わる)ポーズを取っているわけではないということを伝えようとするために、6000字くらいの文章にまとめたということと、青松輝が短歌を本当にやめるという段になる前に僕の考えていることを表に出したということがある。
・また、これは実質的に空リプの形になってしまうのでしたくない、本当はしない方がよいのだろうと思うのですが、新人賞で複数回次席を獲得し、また歌集を刊行し、既に「歌壇」に発掘されていると言ってもいいであろう側に立つ人物が、そうではない人物の発言を(おそらく)受けて「短歌は誰のものでもない」と言及する際に発生する効果についても思います。
・「短歌は誰のものでもない」という極めて正しく見える言及に、ここでは「(だから短歌を誰かのものとして語ってはいけない)」という主張を補うことができます。歌人全員がそのような倫理的な態度を身につけたとして、その結果待っているのは結局、より「歌壇」の中心に近づいている人間、あるいはより読者を獲得している人間の言説(この短歌がよい、といったような)が読まれ、残るという状況ではないでしょうか。
・画像ツイートだと検索できないからちゃんと文面として残る形で書け、という声がありましたらこれをそのままnoteの方に上げたいと思います。
・別に僕は誰かと喧嘩したいわけではないです……これは本当にそう思っていて、僕が無自覚に誰かの価値観をないがしろにしてしまっていたとしたらそれに対する反論、異議申し立てなどは当然為された方がうれしいしそれに対して僕は反応をするべきなのだろうと思います。その結果なされる喧嘩というのは、宗教戦争のようなものなのかもしれないと思うし、当人たちにとってなされなければならない喧嘩であると思います。今回のこの文章はそうではなくて本来意図していたのはこういうことですということの釈明(書き方によって意図とは異なる受け取られ方をしていると感じることは嫌なので釈明してしまう……)であって、僕は(勝手に推測しているだけかもしれないけれど)先のnoteについての言及のなかで対立してしまっている考え方はないのではないか、ないとうれしいな、と思っています。

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