あいたいってあたためたいだ

27歳になり髪が伸びた。横になっている。SALUの曲が流れている。眠れないから深夜ラジオを聞く。起きる出来事すべてに納得がいかなくて息が苦しい。苦しい理由をこれまで考えてこなかったからかもしれない。これまでnoteに残した文を振り返ると苦しい苦しいと自分の内面を言及したものばかりで情けなくなる。20歳前後で日本の私小説を読みすぎたことが今となって浮き上がってきたのかもしれない。

4月から新しく仕事を始めて半年が過ぎるが、無気力が暫く続いた。小さい頃から望んだ仕事だし前職と比べたら余暇は増えたが、前のように音楽に没頭することは殆どなくなり、家で呆けることが多くなったように感じ悲しい。前にnoteで文を書いたときからいままで、文を書きたいと悩み、それでも文を書くことができず悔しい気持ちを持ち続けていた。閉じた世界の、自分本位の言葉を生み出しても自分に変化を起こすことができないのではないかと考えていたから文に対して躊躇していたのかもしれない。それでもどういう人間にこれからなりたいとかどういうことで自分が喜ぶのかを知りたいし、世界における自分の立ち位置を把握したい。言語化は世界を文節することなので、そのためにも今後個人的な文を書いていこうとおもう。

壁に当たったときに自分にできることは1つしかない。その答えは自分がいまよりも高いところを目指すことだと個人的に思う。それは自分の現状よりも外に目標を設定することでそこへ近づくことができるという苫米地理論に似ているかもしれない。もしくは、ルサンチマンと道徳を否定し、力への意思を秘めたニーチェの超人思想に似ているかもしれない。しかし一個の生命体として強くありたいと思うことははたしていいことなのだろうか。

いま、わたしが本当に欲しているのは何か。コジェーヴは、動物と人間の差異を「欲求」と「欲望」という用語を使い分けることで説明する。「欲求」とは欠乏-満足の反復。「欲望」は本質的に他者を必要とする。男性が女性を手に入れようとするとき、その事実をも欲望されたい(嫉妬されたい)と考える。さらに他者が欲望するものを手に入れたいと考える。間主体性の欠如で人間は動物化すると東浩紀は主張するが、それは人間主体の考え方ではないだろうか。わたしは他者からの欲望を欲する人間よりも、欠乏と満足のみを駆動している動物の方が生きものとしてはるかに素晴らしいと感じる。肉体は精神の私有物ではないからだ。だがこうしてnoteに文章をpostしていること自体が他者から欲望されたいと考えている証左なので、自分で自分を否定している。しかし明確なのは、二律背反的な事実が両方ともわたしを過不足なく表しているということだ。人間は常に矛盾を孕み否定を繰り返しながら弁証法的に高みを目指す存在である。

文を書くこともそうだが、生産することや創造することに勝るものはほかにない。生産・創造に携わることができていないとき生を全うできていない無力感でいっぱいになる。消費するより生産・創造したほうが楽しいという観念が自分に深く根付いているのかもしれない。クダを巻いていても仕方ないので明日からは生み出すということを念頭においていきていきたいと思う。学生の時は楽曲制作であったが、いま特に渇望しているのは文章を生み出すことである。そのためにも読書体験と映画鑑賞に浸ろうと思う。

載せた写真は最近いただいたドライフラワーとブローチ。休日にacneのマフラーを巻いてyohjiの洋服を着るのがささやかなしあわせだが洋服はなりたい自分に手っ取り早くなれる方法の1つかもしれない。


#エッセイ #コラム #日記

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