見出し画像

好きに対する肩の力を抜いて、おもしろくねー自分も受け入れる




2024年となりました、本年もよろしくお願いいたします。
昨年初めてきちんと一年の抱負を立てたらメンタル的にすごく良かったので、今年もやりたいなと思いつつも、なかなか納得がいかず数日が経ちました。


昨年の心意気としては、やりたくないことはやらないように嫌いを避ける方向で我儘になれた1年だった、と自分では認識してるんですね。だから今年はやりたいことをたくさんやって、好きへ積極的に触れていく年にしたいな〜とぼんやり思ってたんだけど、今んとこ難しそうで抱負にするの踏み出せなかった。既に?


自由時間だ、なにやろうどうしよう、と迷って立ち止まってたらもうこのまま動きたくないなーが先に来ちゃって、一日の終わりに好きなものへ手を伸ばすだけの元気を残しておくことができない。今日はきっと疲れてるんださっさと寝よう!がエブリデイだから結局なにもできていないのが現状。もっとこう、やる気を入れなくても行動を起こせるような、腰の軽い人間になりたい。誘われたらなんでもやるのになー……。自分で自分をその気にさせるのがむずかしい。


8時間働いた後だったら皆そうなるのが普通か?やはり人類に週5で8時間勤務は酷なのでは?とも思うし多分それもなんだが、それ以外にも自分の推し方が主要因な気がしてならない。神格化するタイプのオタクなせいで、推しを日常にしすぎたくなくて。常に特別なものでありたいんだよ。ながら作業みたいな半端な気持ちで向き合うな!!とかいう謎の体育会系魂をここでだけ発揮している。そのせいでコンテンツへ運ぶ腰がどんどん重くなっていく。


これ見たいな、じゃあ環境整えて静かなところで、やること全部済ませて、綺麗で健康な心身で、膝を揃えて再生ボタンを……とか思ってるから見れねえんだよ。そんな日がそう何度も作れることねえだろ阿呆か。

そのくせネタバレ許さないマンだから公式以外からの情報も拒絶しがちで、このSNS社会においてそれはもはやほぼ不可能にも関わらず、何とか遮断してやろうとする。そしてようやくなんとかして久々に摂取できた推しで、あ〜〜〜やはり俺の生きる糧はこれだ……と歓びを噛み締める。いわばセルフ推し断食。イカれてやがる……。

てかなんかこれサウナで皆が得てる快感に近い気がする。わたし身体的にサウナ向いてないタイプ(すぐ脱水になるから)なくせに何してんだ。心身の健康のためにもやめた方がいいことがようやく腑に落ちた。


というわけで今年はもう少し肩の力抜いて、軽率に好きへ足を運ぶように意識したいと思います。できるかな〜〜……






それで言うとnoteへの投稿もそう。最近、書いても書いても読み返した時に面白くないな、と思っちゃって筆が進まない。

これはひとえに、私が今かなり普遍的な幸せを手にしているということがめちゃくちゃデカい。こういうことがあって、これが楽しくて、嬉しくて、しあわせで、よかったです。こんなんばっか書いてるわたしの日記って、なんか……つまんなくないですか?いや他の人のは全然、いいね〜^^ って読めるんですけど……
でも煮詰めまくった暗い文章より数十分で書いたシンプル日記の方がよく見てもらえたりするしな……分からん……。


昔に戻りたいとは微塵も思わんが、noteを書き始めた時の苦しくてどうしようもなくてただただ心情を書き連ねていたころの文にある引力のようなものには、少し後ろ髪を引かれるときがある。もうわたしこれ書けねえな〜、っておもう。へったくそで拙いけど、失うには惜しい感性だったのかも、とか思ったり。




ところで先日、友人に今年の抱負迷ってるんですよね〜などの話をしたのち、別れたあとにいっしょにオワコンになりましょうね、との連絡が来た。どういう意味ですかと尋ねたところ、


「かつて、鬼尖りで面白かった女がふつうみたいな幸せでぬるくなってつまんなくなるのをオワコンだとおもっていたからです、、」


何それエモ。ていうかその感性なんですか?羨ましすぎてぐぅぅってなった。あとめっちゃ嬉しかった。私って、かっこいい女でも可愛い女でもなくて、おもしれー女になりたかったんだ……と初めて気づく。

畜生敵わねえ。この友人が敵じゃなくて本当に良かった。我慢できなくなったので各SNSへの引用許可を取ってbio欄に使用させてもらった(ありがとうございます)。


いやでも、将来的にそうなっていきたいのは確定したけど、まだオワコン化するには惜しいなとかんじてるので、もう少しおもしれー枠で足掻きたい。自分まだ痛い女やれます、やらせてください。おもしれー女でいたいんですよ……三点リーダーは必ず2つ使うことにこだわりを持つような面倒くさい部分を捨てたくない……。


なんだかんだ拘りが強くて譲れない部分が多い自分に愛情があるかと問われると頷けないけど、確実に愛着はある。妥協を繰り返して自我が薄くなっていくのは怖い。自分が自分じゃなくなってしまうのは嫌だ。かといって他者への憧れは止められず、自分以外の誰かになりたい変身願望は残存している。自分ではありたいけど自分以外に憧れる。え、頓智かなにか?助けて一休さん。


自分の拗らせ部分を見つめてる時こそが私のアイデンティティだって思っちゃう。暗くてネガティブで面倒くさくて思考回路が意味わかんなくて考え過ぎてて真面目で、そういうのが私でしょ。幸せなのってなんか似合わないじゃん。白いふわふわより黒いレースの方がしっくりくるし。そういう惨めなところを笑いに変えるのが私だよ。


でも、私に不幸でいて欲しいのって私だけなんだよな、たぶん。


不幸の方がおもしれーじゃん、って自分にだけは思ってるせいで、普遍的な幸せが続くとどんどん不安になるし怖くなる。こんな嬉しくて大丈夫?このあとなんかどん底が待ってる?てかこれっていつまで続いてくれる?失ったらどうしよう、いつまであるかも分かんないのに、こんなにしがみついちゃったらもう戻れないじゃん。こうやって終わることばかり考えちゃう。イベントは本番よりも準備が好きだし、なんなら前日がいちばん好き。だって始まったら終わっちゃうから。まさに悲観主義者よろしくのドーナツよりもドーナツの穴理論。ちなみにわたしはミスドでひとつ選ぶならエンゼルフレンチにします。


とはいえせっかく長年崩壊していたアイデンティティが一旦確立したわけですから、全てを改めようとは思いません。つまり、自覚している特性を大切にしつつも、それ以外の部分も自分であると受け入れようと。どこにでありそうな言葉に納得しちゃう、おもしろくねー自分だっていいじゃない。


昨年がんばったおかげで手元に居てくれてる「幸せ」たちを、素直にありのまま受け入れたい。そのためには、まず自分の幸せを受け入れるようになるのが先かな。というわけで今年の抱負はこんなもんにします。不幸なわたしも幸せな私も、よろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?