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Silent Holiday in Tokyo

残業、早出勤&残業、早出勤の激動3日間を終え、ルンルンで帰り道を進んでいたら、目前にぽっかりと大きな月が見えた。

満月に近くてすごく綺麗。前に見た時は三日月っぽい形だった気がするのに、いつの間にそんなにも日が経っていたのか。それとも今日は帰りが少し早いから、よく見える位置に月があっただけなのかな。


そもそも空を見上げること自体久しぶりだったのかも。これでは無類の星空・月好きの名が廃るな。

なんて思ってからまた数日経って、気づいたら丸い形はまた弧を描いていた。しまった、また変化の過程を見逃している。





東京に行った。

東京には何度も来たことがあるけれど、ゆっくり街中を歩くのはあんまりないから新鮮だった。東京の建物はどれもでっかい。広告も映像も道路も横断歩道も、何もかもがでっかい。でもあんまり見上げすぎると田舎者ってバレちゃうから、なるべく前を見て歩いた。

ずっと行ってみたかった場所、お洒落なご飯屋さん、でっかいアパレルショップ、推しの聖地、巨大な広告たち。東京はどこを歩いても『東京』って感じがして、そんな浅い感想しか抱けない自分の幼稚さが笑えた。


けど東京の街は臭いの酷さも規格違いだった。大きい駅周辺に近づけば近づくほど、道が生ゴミとドブと濡れた土みたいな匂いがした。一件すると別にそんな荒れた道には見えないのに、空気中がうっすらとドブ臭くて、耐えられなくて何度か鼻を覆った。
それでもハチ公前あたりでうっすらと金木犀の香りがしたときはちょっと感動した。渋谷にも金木犀って咲いてるんだ、なんて思ったのは東京に失礼だったかもしれない。ごめん。









東京に来た一番の目的は整形のカウンセリング。自分なりに色々考えてここが一番行ってみたい、と思った病院で、必要なお金やら出来栄えの希望やら質問事項やらをたくさんたくさんメモして、準備万端で行った。つもりだった。

なのに、お医者さんを前にしたらなんにも言えなくなった。塊みたいなものが喉に詰まったように、言葉がつっかえて出てこない。ちゃんとした発声ができない。伝えたいこと聞きたいこと沢山あったのに、口にから出る前に何かがそれを堰き止めてるみたいになって、ほとんど満足に言えなかった。先生と目を合わせられなくて、沈黙が怖くて、顔を見られるのが怖かった。顔を見てもらうのがカウンセリングなのに。他の病院ではできたのに。カウンセラーの人には言えたのに。なんで。


まるで昔に戻ったみたいだった。引っ込み思案で、近くに親がいたら全部代わりに喋ってもらってた幼い頃の自分に戻ってしまったみたいでショックだった。ひとりじゃなんにもできなかったあの頃を、過去にできてた筈なのに。私ってやっぱり本当は元々こうなんだ、なんにも成長できてないじゃん。


それでも唯一これだけは言わなくちゃと踏ん張って、ずっとここで先生にカウンセリングをしてもらうのが夢でしたっていうことを頑張ってゆっくり喋ってたら、勝手に涙がこぼれていた。なにそれ聞いてない。全然そんなつもりじゃなかったのに、もっと強い気持ちでいたつもりだったのに、なぜか馬鹿みたいに泣いていた。



その後、詳細な見積もりやら今後もし施術するならなどの説明を受けて、病院を出た。
関東住みの姉と合流して、どんなんだったか説明してたらまた泣いた。交差点、道の真ん中、信号待ちで。病院の中にいた時よりもだらだら流れて止まらなくてびっくりした。でも私の涙に気づいてる人なんて姉以外誰もいなくて、ただただ街や人々が在るがままに横を通り過ぎていく。そんな普通の渦中でひとしきり泣いていたら、赤ちゃんみたいにいつまでもぐずくず慰めてもらってるのも馬鹿らしくなってきて、はいOK切り替えよって言ってご褒美にフルーツサンドを食べに行った。一緒に頼んだフルーツスムージーに目を輝かせて鼻の穴をふくらませて喜ぶ姉を見たら、なんかどうでもよくなった。




幼い頃の、周りに何もかもを任せて流されるままでいたことに気づきもしなかった私が、どんな大人になりたかったかはもう覚えていない。だけど少なくとも、当時描いていた道を大きく逸れていっていることは間違いない。一体どこでどうなったらこうなったんだろう、と不意に考えることは希死念慮がだいぶ薄くなった今でも癖づいていてやめられない。

もし私が東京に住んでいたら、もっとやりたいことにたくさん挑戦できたのかな。大人になったらやろうとしていたことを今の私は幾つ実行できているんだろう。大きくなったら、ここを出ていけばきっと、と常に描いていた空想たちはもう行き場を無くしてしまった。

もっと早く整形してれば、無駄に自分に絶望して泣いて苦しむ時間がもっと減っていたのかな。そうしたら踏み出せた一歩もあったのかもしれない。顔を言い訳にして避けてきた幾つもの憧れを、拗らせずに済んだのだろうか。



こんなタラレバを何度も思い描いた。だけどいつの間にかそれすらも描けなくなっていた。もう私は東京に住むことを憧れていないし、整形がそんな何でも上手くいくような魔法じゃないことを知っている。人生のどこからやり直せたとしても、結局は今の自分にたどり着いてしまう。


まあ、きっとわたしの今って幸せなんだろうし。逆にわたしは不幸だっていう根拠を並べる気にもならないし。たぶん私は幸せ。うん、幸せだ。


以前一度整形を諦めたときの私は、自分に大金をかけることに耐えられなかった。だけど今の私わたしは当時提示された金額の倍以上を示されても揺らいでいない。それで十分じゃん。大規模な模様替えを始めたり整体に通い始めたり美容にお金かけ始めたり、自己投資に時間とお金を割けるようになってるのって、それはつまり自分を少しは愛せるようになってるってことなんじゃないの?

でもその代わり他者への投資が減っている面もある。わたしはオタクしている自分が一番好きで、推しに合わせた価値基準で物事を決め、時間を合わせ、行動を起こし、そこに喜びを見出してきた。それが出来なくなってきている自分が少し悲しいのも、事実。



何かを経験するたびに得るものと失うものがあって、そうして出来上がっているのが今のわたしな訳だけど、それが愛しいといえるかどうかはまだ自信がない。ふとした瞬間に鏡を見ると、どうしても醜さに顔を顰めたくなる。

不意に映ったビルの窓に今とは違う顔が映るときが来たのなら、そのとき私はどう思うんだろうな。






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