聖地でもの思い

・7月12日の日記ですね。しかも昨日のことを書いているから実質11日の日記であるとも言える。

・昨日、「マツコの知らない世界」で「有頂天家族」のことに触れている人がいたのでびっくりした。放送していたのがもう随分昔のことだったので、覚えている人がいるとは思わなかったから。

・わたしはずっと好きで繰り返し楽しんでいる作品がいくつかあって、有頂天家族はその一つ。

・作中で、弁天がいつもひとりでいる。それがずっと気に掛かっている。

・昔はアニメや小説や現実を、ただ受け入れるだけ受け入れて、そのままにしていた。深く考えることはせずに自分の周りに並べて、そのそよ風を顔に受けるのが好きだった。今は一つ一つ手にとって、じっくり眺めてあれこれ考えたいと思う。有頂天家族はこれまで原作を読んでこなかったけど、今日買ってこようかな。

・マツコの知らない世界でやっていたのは聖地巡礼特集で、国内外から集まったオタクたちが聖地巡礼の魅力について熱く語っていた。

・聖地巡礼は一度やってみたこともあるけど、その魅力ってずっとなんなのか分かってなかった。ガイドブックの写真と実際の景色を見比べて興奮する観光客の虚しさ、みたいなものと同質だと思っていた。けど聖地巡礼はそこに物語が絡んでくるんだよな。当たり前なんだけど。特に昨日番組で紹介されていたような作品は、舞台とそっくりそのままの場所があるところも多かったから、作中の登場人物のようにその景色を見たり、ポーズを取ったりすることで、彼らがそのとき何を考えて感じていたのか、その場所が補助線としての役割を果たしてくれるのではないかと思う。

・次に京都に行くことがあったら、わたしはちゃんと朱硝子に行き、カウンターに座って、椅子や机を撫で回しながらお酒を飲み、弁天のことを考えるだろう。ひとりでくじらを引っ張り、ひとりで金曜倶楽部に顔を出し、ひとりで布団に潜り込む彼女のことを。

・弁天にまつわる考察をネットで読み掛けて慌てて閉じた。読んだら確実に影響される。まずは自分で考えなければ…。

・感覚的に理解はできないけど、そういうやつもいるのだと察することはできる、というのは何事においてもあると思うのだけど、「感覚的に理解できない」の時点で断罪をはじめてしまうパターンは割と見る気がする。とくに

・「子供は先回りされると興味を失いやすい」というのを読んで、「まんじゅうこわい」と思った。そういえば、自分はそれほど熱心な読書家ではないのに、母はわたしの好みを考えながら選書して、よくわたしに本を買ってきていたな。自分は読まないものだから、物語の内容を母は知らない。自分しかその内容を知らないから安心して楽しめたという節はあるのかもしれない。男女の仲やセックス、犯罪、差別、そのほか後ろめたいさまざまなことは、読者の中でその鱗片を拾っていたから親に知られていたら気まずくて読書を楽しめなかったかもしれない。

・「まんじゅうこわい」以外に、「天岩戸神話」というパターンもあるだろうな。親やきょうだいが個人的に楽しんでいるのをみて、自分もやりたくなるというのはある。

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