“強いつながり”って何だろう。
来週に大きなイベントを控えた私は、いま文字通り仕事に“追われて”います。
毎日の楽しみだったランチにも行かず、空いた30分でなか卯をかきこみ、コメダに篭って黙々と作業をしてから打ち合わせのために会社へ戻る。
精神は極限状態でした。
そんな時に私がとる回避行動があります。
「脈絡の無いことをする」です。
全く誰も予想していないタイミングで、ただただ思い付いた音を発したり、小躍りをしたり、鼻歌を口ずさむ。
そうする事で周囲の人間との間に生まれる奇妙な空気を感じ取り、逆に「さっきまでは何の問題も無いフラットな時間だったんだ」と思いたいのです。
今日もそれをしました。
社長である山根さんと真面目に企画の話をしている時です。
「こっちやと印刷で問題があるんよ」
「あー、そしたら紙変えた方がいいですね」
「そうやね、早めに気付いてよかった」
「やっぱ好っきゃねぇ〜ん♪」
「…」
「…」
予想通り、意図通り、変な空気になりました。
そうですよ、これを待っていたんです。
「たかじんね」
「…え!」
私は驚きと嬉しさと愛しさと切なさが入り混じった感覚を覚え、おおよそポジティブな気持ちで山根さんを見つめました。
「流石ですね、拾うとは」
「うろ覚えぽかったけどね」
「ええ。悲しいことに、ここしか知りません」
「お、悲しい色やね?」
「あ!すごい!」
なんと、私の意図せぬところで繰り出してしまったたかじん繋がりの天然ボケを見逃さず、山根さんは掬い上げたのです。お見事。
「あれ、でもコレってほんまにたかじんやっけ?」
「え、違いましたっけ?」
「たかじんやとは思う…」
すると、隣の席で作業していたもう1人の社長、花岡さんが入ってきました。
「いやいや、たかじんであってるよ」
「ホンマですか?」
「絶対にたかじんやって!」
私は5ヶ月前に、この2人に憧れてこの「株式会社人間」という会社にやって来ました。その2人が「たかじん」と断言するのですから、これは神のお告げに他なりません。
一切の疑念を持つことも憚られる、絶対的なお言葉。
「たかじんやて!」
「やっぱ山根さんすげえなあ」
「そうやね、今のは山根さんの手柄やわ」
「あれ、山根さん?」
山根さんが素早くキーボードを叩き、あっ、と声を上げました。
まさかのまさかです。
「これ、上田正樹やわ」
「え」
「うそやん」
さっきまでの盛り上がりが嘘のようにオフィスが静まりかえり、空調の音が轟音に聞こえてくるようでした。
「これはひっかけ問題やね」
「そうですよ、上田正樹なんてほぼたかじんです」
そんな無念の一幕が終わった後、私は言い知れぬ幸福感に包まれていました。なんだか、この世界に自分は1人じゃないと強く感じられたような、巨大な孤独から解放されたかのような、得体の知れない満足感と安心感。
そうか、今この瞬間に地球上で『上田正樹』と『たかじん』について議論しているのはこの3人だけだから、強烈な連帯感を感じられたのかも知れません。
いくらラグビーの世界戦をスポーツバーで観て盛り上がったとて、それは何万人もの日本人が同じように右へ倣えしているだけのことであって、義務教育のようなものです。
「義務教育を受けている」という共通点で仲良くなることがありますか?
おそらくないでしょう。
でも、都内で地方出身者が同郷の仲間を見つけると強烈な仲間意識を得られるように、地球上でたかじんと上田正樹について議論して同じ間違いを犯しあった仲間であればより強固な中間意識がうまれても不思議じゃありません。
もし、本当に強いつながりがほしいなら、右へ倣えをやめましょう。
誰がついて来るか分からない、勝算のない中で1人左に倣えをするのです。
サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。