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津田大介はすごいってこと。

「あいちトリエンナーレ2019」に参戦してきた。
津田さんが燃えて話題になった、あの国際芸術祭展である。

なぜ行ったのか。
センスよく思われたいからだ。

先日ふと思った。

瞬間湯沸かし器の取扱説明書より面白くないブログと、我が子の出ていない幼稚園のお遊戯会より見る価値のないYouTubeをせっせと更新していると、何かの手違いで「こいつのセンスは超前衛的なのではないか?」と思われるかもしれない。

そう思い「アーティストに、俺はなる!」と意気込んで参戦したわけだ。
明和電機とか、電気グルーブとか、そっち系になれる気がして。

結論から言おう。
それは無理だった。

現代アートとは、一見単なる悪ふざけに見えて、そこにはくだらないギャグとの明確な隔たりがあったのである。そしてその隔たりは一生超えることのできない代物だろう、とも思えた。

例えばこの作品をみて欲しい。

これは「Stranger Visions, Dublin: Sample 6」という作品。
上に設置されたマスクは作者が街中に落ちている毛髪やチューイングガムのDNAから復元した顔なんだそう。

作者はこの作品に「こんなにも簡単に顔が復元出来てしまうだなんて、怖いと思いませんか?技術の進歩っていかがなものでしょう」という警鐘の意味を込めているんだとか。

もし私が芸術監督だったらなんて言うだろう。

私なら数人で街中に繰り出し、採取したDNAで復元した顔を持ち札にして「風俗指名早抜けダービー」をした方が面白いと言うに違いない。綺麗な茶髪からオッサンが復元されるかもしれないし、クッサいガムから伊東美咲が復元されるかもしれない。面白そうだ。

しかし、これは現代アートではない。

以前読んだオモコロの記事で「現代アートとお笑いの違いは背景にある社会的メッセージの有無だ」という話を読んだ。作者は「科学技術の発展に対する警鐘」というメッセージを込めているが、私のアイデアは「面白そう」という意図にのみ依拠する。


これはどうだろう。

これは「60分間の笑顔」という作品。
60分間もの間、整列した8人はずっと無言で笑顔を作らされ続けている。

作者は「彼らは笑っていますが、本当に幸せだと思いますか?」という哲学的な問いをこの作品に込めている。普段から自分が見せている笑顔にだって言えることかもしれない。

もし私が芸術監督だったらなんて言うだろう。

私なら「途中から鼻にゴボウとか詰めて『絶対に笑ってなきゃいけないトリエンナーレ』とかにしようぜ」とアドバイスするだろう。辛い状況でも笑ってなきゃいけない外国人たちのリアクション芸は見ものだろう。ワサビとかねじ込むのもいい。

これも現代アートではない。
メッセージのカケラもない、ただのオゲレツ胸糞バラエティだ。


これならどうか。

これは「孤独のボキャブラリー」という作品。
ポスターにも起用されている。

この作品は理解不能でした。解説を読んでも。
なので解説を貼り付けます。

《孤独のボキャブラリー》とは、まるで生きているかのような、ピエロの彫刻45体によるインスタレーションです。色鮮やかな衣装を身にまとってはいますが、彼らは無表情を貫いています。この作品はロマン派やシュルレアリスムなどの美術史の文脈に加え、ポップカルチャーの動向、道化やマイムの来歴も参照しています。

もし私が芸術監督だったらなんて言うだろう。

私ならプレゼンされても理解が出来ず、分かったオーラを全開に出すだろう。そして「これ全員勃起させて『孤独のボッキカクシー』とかにしようぜ」と言うかもしれない。
学生時代、授業開始の挨拶をする際に勃起してしまっており、ちゃんと起立出来ずに男子はよく「勃起隠し」をした。彼らのくだらないけどシリアスな惨劇と哀愁を45体の人形で表現するのは面白そうだ。

これなんて完全に右足を立てて勃起隠ししている。

これも現代アートではない。
こんな大々的なイベントで取り上げるべき課題ではない。


そもそも、社会的なメッセージなんて浮かばない。
土台から崩れている。

私だってシリアスに世の中の課題を捉えて、そこに対するとても哲学的な問いを立てることが出来るのなら現代アートぐらい作れるかもしれない。でもその前段階でポシャっているのだ。

そりゃ普段から「どうすれば美魔女を抱けるだろうか」「ベビーカーを押している美魔女が既婚者ではなくベビーシッターである可能性はどの程度だろうか」などと言うことにしか真剣に脳みそを使っていないようじゃ土台無理な話である。

要するに私に現代アートなど不可能ということ。
そして津田大介はすごい、ってこと。

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