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聞け、正論おじさん。

巷で話題になっている「正論おじさん」とやら。

なんでも、商店街の通路に1mmでもはみ出している看板やのぼりを勝手に撤去しては店内に乗り込んで注意と言うなの暴言を吐き捨てているらしい。

知らない人は動画を観てください。
パンチ効いてます。

おじさんは「天下の法律で決まってるんだから」「私は法に則ってやっているだけ、全くスキが無い」と言っている。その論拠の元、横暴の数々を繰り返しているんだとか。

また、彼の主義主張はこう。
「道に看板があるとぶつかって危ない」
「道路が綺麗になって年寄りは喜んでいる(証拠なし)」

これまでに老人が看板にぶつかって怪我をした事件でも報告されているんでしょうか?報道やTwitterには出ていない模様です。

でも、実際言っていることは正しい側面もあることは事実。
法律では公道に私物を置いてはなりませんからね。


ただ、問題はシンプルです。
このおじさんのやり方が乱暴過ぎるが故に、店で怒鳴るわ看板はなぎ倒すわでお店の常連客も来なくなってしまうんだそうです。

シロアリやゴキブリなら殺虫剤撒いて殺せるんですが、か弱い老人ですからそう言うわけにもいかない。追い出そうとすると「客を追い出すならシャッター閉めろ!」と罵ります。

私は単純にこう言う老人が嫌いなんです。
学生時代スーパー銭湯でバイトしていた頃、駐車券を「常連だから」と優遇させようとしたジジイと口論になったこともあります。

そして、「正論」も嫌いなんです。
「正義は我にあり」が嫌いなんです。

つまり、私はあくまでも個人的に正論おじさんが嫌いなんです。
だから商店街がどうとか、論理がどうとか、一切関係なく個人的な趣味の範囲でおじさんを論破しようと思います。

まあ、個人の趣味なので、オナニーぐらいに捉えてください。


では行きます。

まず、そもそも彼の主張は「法治国家」を全肯定する立場が前提にあります。法治国家は素晴らしい、その法治国家において「法律」は絶対であり、それを侵すものは何人たりとて許せない、だから俺が成敗する、という論理展開なわけですね。

まあ、法治国家において「法律」が力を持っていることは事実です。
しかし、それが「正しい」かどうかは別の話です。

例えば、今の法律では「リベンジポルノ」が裁けなかったりするんだとか。それもそのはずで、社会はテクノロジーの発展などでどんどん進化していくわけですから、法律も変わらないと古いまま置いていかれるのです。
そのために、日本の政治では法律を変える仕組みも、新しく作る仕組みもあるんです。

つまり「今ある法律が正しい」と言う保証はどこにも無い
故に「法律で決まっているから」と言う論理では建設的な議論にならないし、法律を絶対視することは法治国家の考え方とは根本から異なるのです。

法律は変わって当然。
その視点のもとで議論しなければなりません。

じゃあ、今回の場合はどこに着目するのか?
それは「具体的な被害」です。

看板が公道にはみ出しているせいで、どんな被害が出ているのか、そしてそれを解決するために一番良い方法は何なのか。そこを議論せねばなりません。

おじさんが言っている被害は「老人が怪我をする」でしたね。

では、老人がぶつかって怪我をする危険があるのでしょうか?
あるかもしれませんが、それを言い出したら街の街路樹だって同じでしょう。信号機だって、電柱だって同じじゃ無いですか。

国が置いているものは絶対に安全で、個人が置いているものは危険なんてことはありません。つまり、その通路において最低限確保すべき幅を設定し、そこまでは置いて良いということにすればいいのです。
もしそれを通路全体にするのであれば街路樹も電柱も撤去しなければなりません。それが本質的な課題解決の議論です。

☝︎この場合左下のプランターは公共物の鉄柱より内側なので「公共物より危険では無い」と言うことになりますね。


そうなると、おじさんが「老人の被害」を解決するために動きたいのであれば、まず何cmあれば危険がないのかを論理的に定義してください。それの妥当性を考慮した上で、公民関係なくその幅を守りつつ店が営業するようにすればいいのです。

「法律で決まっているから」は方便です。
ある意味、方の絶対性に基づいた思考停止です。


ああ、長々書いたらスッキリしました。
私には1mmの被害もない事件なので個人的なオナニーはここまで。

あとは自治体とおじさんと店側の紛争を草葉の陰から見守っております。
あ、草葉の陰は公道か…。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。