屁ッセイタイトル画像__90_

富士山にあって、Amazonプライムに無いものは「絶望」である。

今日は朝から富士山に登った。
このブログを書いているのも、富士山の麓にあるホテルだ。

昨日も人間で働き靱公園で映画祭をした後、そのままの足で友人の車に乗り込み、朝の5時過ぎに富士山へ到着した。簡単に言うと徹夜で富士登山を決行した事になる。

実は徹夜で富士登山をしたのは初めてではない。
まだ大学生だった3年前にも同じく夜に大阪を出発し、朝方に富士山へ到着してからそのまま登山をした。

そして、メンバーも全く同じ男3人組だ。

愚かとしか言いようがない。
なぜ過酷な富士登山を2度も続けて徹夜でのぞむのか。

実際、3年前には1人の男が高山病でダウンしており、登頂に成功した私ともう1人もズタボロになっており、帰りのホテルまでの道中でスポーツカーとの接触事故寸前にまで至った。相手のドライバーが優秀で九死に一生を得た。

そして私は「もう二度と登らない」と決めたのだった。

それがいざ蓋を開けてみたら、結局3年後に同じ過ちを繰り返している。
当然のように同じメンバーが高山病にかかり、残り2人は起床から37時間目でようやく眠りにつこうとしているのだ。

今日の私はこんな感じである。


酷い有様である。

なぜ富士山に登ってしまったのか。
今でも不思議で仕方がない。

そもそも富士山を登っていて楽しい瞬間が殆どない。
常に薄っすらと不安で、極度に疲弊していて、自分の無料さに辟易している。

富士山を1つのコンテンツだと捉えたとしよう。
富士山は間違いなく「絶望」を届けるコンテンツだ。

まず富士山は「〜合目」と高さ毎に区切られていて、五合目からスタートするのが一般的だ。そして十合目が頂上になっている、非常に分かりやすいシステムだ。

だが、実際に登り始めると驚愕することがある。

例えば「八合目」に到着したとして、その時点で数字だけ見れば登山ルートの60%は制覇していると思うだろう。しかし、次の中継地点に到達すると恐ろしい事実がわかる。

八合目の次は「本八合目」なのだ。
そしてそれが4つもの中継地点からなるので、どれだけ這い上がっても「八合目」から脱出できない。

そんな苦難にも乗り越え、ようやく九合目にたどり着いた。

頂上の手前で最後の調整をしよう。
ゆっくり休んでベストコンディションで頂上に望もう。

しかしそれは出来ない。
九合目にはお店も自販機もトイレすらもないのだ。
もし水を買おうと思うのなら八合目の中継地点まで戻らねばならない。

それも乗り越えて登頂に成功したとして。
あなたに待ち構えているのは地獄の「下山ルート」だ。

あなたは6時間も、7時間もかけて登ったこれまでの道のりを、最後にもう一度清算しなければならない。疲労困憊で、最後の気力を振り絞った後に、だ。

しかもこの下山ルートはシンプルなジグザグ道でしかなく、砂利道の急勾配な下り坂なので気を抜くと足を取られて転んでしまう。それに砂利は細かくて靴の中へと否応無く入り込んでは素足を容赦無く傷つける。

そしてジグザグが終わると最後に3kmほどながーっい坂を登ったり降ったりさせられるのだ。

「もう、あんまりだ」
「私が悪かったから許してください」
そう言ったところで富士山は手を緩めてはくれない。

私はここまで「絶望」を提供するコンテンツを知らない。

例えば胸糞映画として名高い「ダンサーインザダーク」を観たとしても、それは「胸糞悪いものが観たい」という希望を叶えているに過ぎない。話の結末が絶望でも。

特に今のネット社会ではAmazonプライムでビデオが幾つでも観られ、観たいものだけを、観たい時に提供してくれる。そして辞めたい時に辞められるのだ。

しかし、富士山は辞めたくても辞められない。
ご来光が見たいと思って登頂しても、天気で見れないことも多々ある。

「コンテンツ」という括りで富士山を見たときに、私はここまで絶望をさせてくれることに忠実なコンテンツを見たことが無い。

でも、だからこそ与えられる「絶望」があるでは無いか。
自由で融通の効くAmazonプライムでは出来ないことがあるのでは無いか。

例えば強い「絶望」を知らない人は、途方に暮れて行き場のない怒りを抱えた人のことを理解できないだろう。強い「絶望」を知らない人は、人を簡単に「絶望」させてしまう。「絶望」も必要な感情なのだ。

つまり、ここでしか得られないものがあるから、富士山へ登ったのだ。
そしてそれを今度(お盆中)にYouTubeへアップします。

お楽しみに。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。