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「なぜ?」を大切にするのは不自然だ。

「人間」という会社で働くようになって、一番感じたことは「面白至上主義」であるということです。
どんな選択も、決裁も、最終的には全て「面白いから」に帰結している。

この話を聞いて違和感を覚えますか?
それとも納得しますか?

個人的に、世の中の会社は二分されると思っています。
それは「なぜ?」を大切にする会社と、そうでない会社です。

前職のゲーム会社は完全に前者でした。
社内でのプレゼンでも、毎回のように「なぜやっているのか?」という、各チームの目的やコンセプトから共有され、その上で実際に取り組んだことを発表していく。

ここを徹底することで、最初の目的からブレず“正しい意思決定”ができるというのが、その会社での絶対的ルールであり、ある意味で宗教でした。
当時、その考え方には自分も納得していましたし、そうあるべきだと本気で思う信者だったと自負しています。

「なぜ、この施策を入れるのか?」
「なぜ、このイベント名にするのか?」
「なぜ、経費を使ってこの本を買うのか?」

「なぜ?」を毎回念頭においてから、仕事を進める。そんな日々は、なんだか大きなものに守られた安心感があり、居心地のよいものでした。なにせ、そこをブラさないということは、強力な大義名分がある状態に居続けることなのですから。

しかし「人間」は違います。
明らかに「なぜ?」をすっ飛ばして、アイデアから構築している。

もちろん、クライアントさんがいるお仕事の場合、一定の目的が設定されていますし、その中でアイデアを出すという構図にはなっています。

が、しかし。
「そこが一番じゃない」という姿勢なんです。

一応、前提としてのテーマを設定した上でアイデアを持ち寄るのでまるっきり違う企画内容になることはありませんが、アイデアを膨らませる中で「それ面白いやん!」となったものは、多少目的とズレていても重宝されます。

だから、その企画を通すために「なぜ?」を後付けしていく。

これは見方によって「詐欺師」のように見えてしまうかもしれませんが、そうではありません。あくまでも発想の順番が異なるだけで、最終的に『目的が果たせない』となれば企画が提案されることはありませんから。

でも「仕事」という側面で見ると、これはどうも不健全に見えます。
だって、お金をもらって仕事をするわけですから、相手の目的を一旦ないがしろにして考えるのって失礼にも見えてしまうでしょう?

やはり、「なぜ?」を大切にすべきなのでしょうか?
それこそが健全な姿なのでしょうか?
“健全な姿”って何なのでしょうか?

一番、生き物として“健全な姿”って野生動物ですよね。
「生きる」ということだけのために生きている。

では、人間が野生動物だった頃のことを考えてみましょう。

もともとサルだった我々は、進化をする過程で「あれ、地上に降りた方がええやん」と考え、木登りをやめ、二足歩行になり、脳が大きくなりました。

その時に「なぜ?」と考えたでしょうか?

二足歩行で生活をしていくうちに、人類は道具を使うようになります。その中で「この木ずーっと擦ってたらどうなるんやろ?」と思った誰かが火をおこし、動物の中で初めて「火を扱う」ことを可能にしました。

その時に「なぜ?」と考えたでしょうか?

考えてませんよね。

そもそも人類は「なぜ?」なんて考えず、ただ思うがままにのびのびとやってきた結果、文明の礫を手にしている動物です。今更かしこまって「目的が」「ビジョンが」「コンセプトが」と御託を並べても仕方がありません。

つまり「人間」は「人類」として一番健全な姿で仕事をする会社だということです。
案件に火起こしするまで野生ではありませんが。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。