屁家物語タイトル__1_

【短編】ダブルロール

「今日は早く帰れると思う」

妻を安心させるために幾度となく使ってきた言葉だ。この言葉に信憑性が無くなっていることはとうに分かっているが、これ以上の言葉が思いつかない。
妻からの返信は無いが、見ていることだけが分かる。それは怒っているのではなく、期待をしていないという信号。彼女自身が落胆しない配慮であり、だから僕も「思う」と付けた、彼女への配慮として。

娘が生まれてから2年が経っているものの、いまだに僕が会社にいる間の2人を知らない。
食器が少しずつ増え、お皿が大きくなり、いつしか哺乳瓶も棚の上でしばらく乾いていた。そんな風に台所の「流し」にある光景から彼女たちの暮らしを推測している。

僕の知らない生活。

それでも妻から時折送られてくる写真と動画は僕の「推測」を大いに助けてくれる。娘が掴まり立ちして歩く姿や、ごちそうさまを覚えた時も、僕は画面越しの2人をただ傍観していた。まるで華やかなタレントと一視聴者みたいに。
そう言えば少し前にテレビで白衣を着た、いかにも、な中年女性が「浮気を防ぐには子供の写真が一番」と言っていたが、妻はそんな器用な人間ではない。もしかすると動物的な本能でそうしているかもしれないが。

「吉見さん、ちょっといいですか?」

後輩のアケミがお気に入りのぬいぐるみを抱えながらデスクまでやってきた。アケミは美人だ。他の男性社員からも注目されていて、それを本人も分かっている。
顔は大人びているのに言動と行動が幼く、その違和感が独特な色気を放っていて、彼女がジョッキのビールを両手で持つ様を鮮明に覚えている。断じて異性としては見ていないが。

「ん?どうしたの」

同僚から鼻の下が伸びているなんて見られるわけにはいかないので、なるべく気負わず、禅僧が参拝者に挨拶をするぐらい穏やかに言ったつもりだった。
だが少し口角が上がった気がする、他の人にはしない角度で。「ん?」もワザとらしかったかもしれない。

「…ですよ」
「えっ?」

明らかに油断していた。そしてうろたえていたと思う。もう少しハッキリ話してほしい。
正直、僕はアケミが好きじゃなかった。堂々としていて、臆面も無く注目の的であり続け、期待に応えるところが忌々しいとさえ思う。

「エクセルの関数で教えてほしいやつがあるんですよ、今大丈夫ですか?」
「ああ、もちろん」

帰る準備を少し怠っていた自分を恨んだ。カバンに手をかけていれば、帰る準備をしていることが伝わっていれば、そんなこと明日か「他の男」に回しただろうに。

アケミのデスクに向かって歩く途中も禅僧をイメージしておく、口角は気持ち下げて歩いた。イメージは清水寺の舞台、しんと静かな冬。清水寺が禅宗かどうかは置いておく。
同僚の何人かがこっちを見ていることは分かったが、目を合わせてはいけない。彼らと目があうということは何より下心を表す行為であり「舞い上がっている」証拠になるからだ。

アケミの質問は簡単なものだったが、いらぬ思考が邪魔をして2度ほど聞き直してしまった。舞い上がっていると思われることと、アケミに不快感を与えたのではという憶測、そして両方に翻弄される自分への嫌悪感からくる動揺だった。

「大丈夫そうかな」
「はい、ありがとうございました!」

想像以上に可愛い。嫌いだ。

自席に戻ってからまた口角が上がっていることに気づく。
気をぬくとすぐこうなる。

帰る準備をしたいが、すぐに始めるとアケミに「帰る時間遅らせてしまった」と思わせてしまう気がして少し携帯をいじっておく。
自分が決めた「ちょうどいい頃合い」を見計らって帰宅準備をする。いつもより1時間は早い、大丈夫だ。

お疲れ様です、と近くの人に告げて帰る。
同僚の数人が笑っているようにも見えた、確信は持てない。

エレベーターのボタンを押してしばらく待つ。
誰も乗ってきませんように。

「お疲れ様です!」
「お、お疲れ様です」

別部署のサヤカが隣に立つ。彼女も美人で有名だ。
僕のタイプではないが、スラッとした脚を際立たせるタイトスカートに端正な顔立ちは彫刻のような美しさがあると思っている。彼女も帰宅するようで、熱心に携帯を見ている。エレベータはまだ来ない。

「い、いつも帰る時間このぐらいですか?」

なぜそんな質問をしたのか分からない。今は話さなくても済んだはずだったが、何かに追い立てられるように口が動いていた。

「え?ああ、そうですね、大体は」

どういった意図だと思われたのだろうか。単なる世間話なのか、帰る時間を見計らって接近しようとしたとか、恋愛事情に踏み込む前の布石とか。
最初に「え?」と言っていたな。完全に違和感を感じているだろうし、下心を詮索されても仕方ないかもしれない。顔が熱い。

「吉見さんはいつもより早いですよね」
「え?あ、ああそうですね」

うろたえた。

「奥さんとかに何も言われませんか?」
「ええ、まあ」

彼女はなぜその質問をしたのだろうか。世間話なのか、それとも釘を刺されたのか。そう思うと曖昧な返事をした自分が早計に踏み出した愚か者に映る、まるで本当に下心があったみたいだ。顔がとても熱い。

エレベーターは1Fに着き、先に僕が出る。
足早に置いて行くわけにもいかない。今そんなことをすれば完全に戦に負けた落ち武者だ。戦じゃない、何て事のない世間話なんだ。

「吉見さんってJRでした?」
「ええ、そうです」
「あ、じゃあ同じですね」

喜んでいるでも、落胆しているでもない、ただその事実を理解したという声だった。もちろん当然の反応なのだが、なぜか少し寂しい思いをしている。他の男だったらもっと高揚したんじゃないだろうか、と。
でもこれは1ミリでも下心がある証ではないか。フラットな回答に心を乱している、しばらく禅僧にはなれないだろう。

目黒駅までは200メートルほどある。大人の二人が歩けば5分程度は優にかかるだろう。
もう我慢ができない。

「あ、僕こっちなんで」
「え?」
「あの、こっちなんで」
「え、JRなんですよね?」
「あ、あの、薬局寄らなきゃいけなくて」
「ん?ああ、そうなんですね、じゃあ、お疲れ様です」
「お疲れ様です…」

最悪の別れ方だった。全てが裏目に出ている。こんなにも裏目。
もちろん薬局に用はなかったが、腹いせに一際目立つトイレットペーパーを買って帰った。裏地もしっかりしたダブルロール。


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