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どうして『美貌的観測』をしてしまうのか。

「人は中身で判断するべき」

そんな言葉を鵜呑みにしていた時期もある。
優しくて、男気があって、人の為に行動できる人間になろうとしていた。

でもなれなかった。

中一の時に好きだった女の子は理科のグループが一緒だった素朴な子。毎週実験の時が楽しみで仕方なく、理科のノートだけは色分けして綺麗に取って、彼女が聞き逃したところは即座に教えてあげた。実験の後片付けだって率先してやったし、面白いことがあった時は全身全霊を込めてトークした。

おとなしい彼女は徐々に屈託のない笑顔を見せてくれるようになり、ほとんど女子と話せなかった私が気兼ねなく挨拶できる仲になっていた。

いつ告白しようか。
それだけを考えて、後ろの席から彼女の華奢な背中を眺める。

バレンタインも近づいてきた頃、バスケ部の友人に相談してみた。
「俺〇〇のことが好きやねん」と。

「あいつ△△と付き合ってるやん」

彼女は他クラスのやんちゃな男子と付き合った。
スポーツ万能でガタイのいいイケメン男子。

「しかも〇〇から告ってんで」

え?え?
意味が分からない。

あんなおとなしい子が告白?
それもあんなヤンチャな活発男子に?

2人が話しているところなんて見たこともないし、部活も授業も重なる点がまるで見当たらない。警視庁が総力をあげたって捜査線には上がらないであろう。「顔」という点を考慮しなければ。

あの日からだ。
「人間は中身だ」と言う言葉を信じなくなったのは。

そんな私だからこそ、自分の顔については自信を持って「ブサイク」のレッテルを貼ることができる。

女バスのキャプテンから「シャニカマみたいなダサい系」と名指しされ、友人の母親から「冴えない君」と呼ばれ、高二で漫才を披露したあと「陰キャやのにすごい」と褒められ、大学で「デカい鈴木福君」と呼ばれたのだ。いい加減理解している。

「イケメンやん」などと入り組んだ嘲笑をする人もいるが、私はその手の賞賛を一切信用していない。大抵そう言ってくるヤツは「そんなことないよ。それなら〜の方が可愛いって」自分に賞賛が倍返しされることを望んでいるだけだからだ。

鏡を見ればそいつはいるんだ。
田中圭や佐藤健が持っているものを何一つ持っていない男がそこに。

いいか、俺はブサイクだ。
これ以上言わせるな、辛いだろう。

だが。

そんな私なのに。
やらかしてしまうことがある。

昨日、大学時代の女友達と飲みに行った。彼女は何年も彼氏ができないことを嘆いていたが、それはルックスが問題ではなく彼女自身の積極性の欠如からくる問題だった。

「ほんまに欲しいんなら動かんと」
「そうやんなあ」
「そんなに顔も悪くないねんからさ」
「そうかなあ」
「プロフもっと凝らないと、俺ならいかへんでコレ」
「なるほどね、もうちょい書くわ」

ハイボールを片手に得意げになった私は自分の「マッチング論」を滔々と語り、TEDトークにでも登壇しているかのようなドヤ顔でコンサルティングをしていた。

ちょっとトイレ行くわ、と席を立ち、男女共用便所で用を足す。
手を洗う時、鏡に映ったのはブサイクだった

こいつがアドバイスしていたのか?
こいつが「顔は悪くない」などと抜かしていたのか??
こいつが「俺ならいかへん」などとのたまわっていたのか???

これまで何度も経験している種の自己嫌悪がつま先から首元まで這い上がり、目の前のブサイクが青ざめて更に滑稽さを増す。犯した罪はもう戻らない、取り返しがつかない、大衆居酒屋のど真ん中にある席でブサイクが少なからず恋愛を語ったという罪。

毎朝見ているはずなのに、つい忘れてしまう。
自らを客観視することを怠り、得意な話題で心地よくなってしまった時に気分だけが顔を置いてイケメンになってしまうのだ。

これを「美貌的観測」と呼ぶ。

自覚があるだけまだマシなのだろうか。
知らないままの方が幸せだったのだろうか。


P.S.
中一の時に好きだった子をFacebookで調べてみたところ、オーランドブルームみたいなイケメン外国人と頬を寄せ合っている写真が出てきました。

サポートされたお金は恵まれない無職の肥やしとなり、胃に吸収され、腸に吸収され、贅肉となり、いつか天命を受けたかのようにダイエットされて無くなります。