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「海城発電」と日清戦争期の人道活動の試練 《Dr.本田徹のひとりごと(80)2021.6.24》

「海城発電」と日清戦争期の人道活動の試練
        ― 新作劇の発表に寄せて


総合演劇雑誌「テアトロ」 2021 年 7 月号表紙

1.文学好きの言われ少々

最「文学老年」の私が、物語好きになったきっかけは、古い話ですが、都立の小石川高校時代に「国語」を教えてくださった、飯田万寿男先生という方の影響に遡(さかのぼ)るように思います。この先生は国文学に関して古典から現代文学に至るまで、実に該博な見識をお持ちの人で、その授業には 心底惹(ひ)き込まれました。文学を鑑賞する際の視点が新鮮、かつ独創的で、いつも目からウロコが落ちる思いをしました。古典では、高校生にも文章がわかりやすく、この年頃の少年少女の心を占めていた恋愛のことを指南してくれるものとして、伊勢物語を詳し く解説してく れ たように記憶します。ま た近現代の日本の文学では、北陸出身の泉鏡花と中野重治を勧めてくださり 、飯田先生独自の好みがどこにあるかも窺(うかが)い知れました。先生は、耽美的で幻想に満ちた日本の伝統文化を表現する天才であった鏡花を読むことを勧める一方、詩的でありながら社会批判の精神をきちんと前に出した表現者としてふるまっていく代表として、中野重治を読むことも教えてくれました。重治という卓越した詩人の、「お前は歌うな」で始まる有名な「歌」は、黒板に大きく全体を書いて、解説してくださったことを鮮明に覚えて います。

 泉鏡花は、高校の学力レベルでは、擬古文の語彙や難解な漢字表現についていくのがむずかしかったのですが、なんとか辞書や注に頼りつつ、「照葉狂言」とか「高野聖」などにはまっていきました。後年になって、名作「高野聖」をクメール語に訳して、カンボジアの人々に紹介し、今や広く市民に読まれるようになったという、ペン・セタリン先生の熱意とご努力を知り、「上には上がいるものだ」、と感嘆したこともありました。思い出したように、鏡花を読み直すことはその後も時々あったのですが、彼の膨大な作品群の中で、私に理解がなかなか 及ばず、とても気になっていたのが「海城発電」という、 日清戦争終結直後の明治 29 年( 1896 )1月発表 の 不思議な小説でした。

2.異色の「嫌戦小説」としての泉鏡花作「海城発電」

 この「海城発電」は、どちらかと言うと、耽美と幻想の世界が評判だった鏡花の作品としては異色の、反戦というほど正面切ったものではないとしても、「嫌戦小説」といえる性格のものでした。「海城発電」とは、当時の満州、現・中国東北部遼東半島にある海城市からロンドンに向けて発出された、英国人新聞特派員の至急電報という意味で、発電所とは関係ありません。
 「海城発電」は、当時の日本が「文明国家」として欧米列強に認められ、不平等条約改正を急ぐねらいで、日本赤十字社を設立し、明治19年(1886) 赤十字条約(別名ジュネーブ条約)に加盟した後、赤十字看護員を派遣する初体験となった日清戦争の、「暗部」を描いた小説です。内容は、そのほとんどが、赤十字看護員の神崎愛三郎という人を、軍属つまり軍に従って兵站(へいたん)業務に携わる軍夫たちの長・海野(百卒長という職名)が厳しく尋問する場面の描写に終始しています。一体神崎の戦場での行動のなにが問題となったのでしょうか?
 実は、「勝って来るぞと勇ましく」とは無縁の世界が、この戦争には隠されていたということを、作家は伝えようとしているのです。日清戦争終結翌年の正月、総合雑誌「太陽」の創刊号と言う晴れ晴れしい場所に、時あたかも国民がまだ戦勝の高揚から覚め切っていない中で、日本軍属が清国女性に対して犯した重大な人道の罪をあばくという、冷や水をぶっかけるような小説を書くのは、作家としてなかなか勇気のいることだったと思います。事実、この作品はその後長く、鏡花の全集からは「抹殺」されると言う「憂き目」にあっています。

 主人公の日赤看護員・神崎愛三郎という人の出身や背景については、原作ではなにも触れられていません。しかし、私は、愛国主義・好戦主義一色に染まっていた当時、敵も味方もなく、人道医療救援を何より大切な行動基準として、戦場で挺身したこのような人物のモデルは、戊辰戦争で辛酸の限りを嘗(な)め、そこから立ち直ってきた奥州越列藩同盟の子弟がふさわしいと考え、神崎を没落会津藩士の息子としました。ここからは、私の創作です。
 NGOの活動は、シェアの場合も含め、ある意味で、「赤十字の精神」を継承させてもらっているところがあります。つまり、人種や宗教、貧富、社会的ステータスなどの違いで、苦境にある人々、難民などを差別せず、人道の精神で接し、救うように最大限努力するということでしょう。
 私も、ささやかではありますが、エチオピアやルワンダ、東ティモール、神戸などでの緊急支援活動に参加した経験のある者として、神崎の気持ちは痛いほどわかります。それにしても、軍の思想と赤十字の精神との厳しい対立を、ここまで描き込んだ、鏡花の筆の冴えと勇気に敬意を持ちます。

「蹇蹇録」と陸奥宗光肖像写真 (岩波文庫) 「出典:国立国会図書館デジタルアーカイブ」

3.陸奥宗光と田中正造 — 東学農民戦争をめぐって

 今回この作品を書くにあたり、近代における日本と周辺国との関係などいろいろ歴史の勉強をし、文献を読み込んだのですが、その中でも感動したのは、陸奥宗光という幕末から明治にかけての武士、政治家・外交官の残した文章でした。
 日清戦争の顛末(てんまつ)に関する優れた記録である「蹇蹇録」(けんけんろく)、妻・亮子に当てた書簡集などには特に心を打たれました。もちろん、彼の立場や主張にすべて賛同するわけではないのですが、明治10年(1877)の西南戦争後、土佐立志社の政府転覆計画に加わった廉(かど)で入獄し4年を過ごし、その後、特赦を受けて英独2国への留学を果たし、ヨーロッパ先進国の憲法や政治制度について、宗光は真剣な学びを続けます。この集中した勉強が、後のち、条約改正交渉、朝鮮王朝へのアメとムチの政策、清国との戦争準備・遂行など多方面にわたる、宗光の国家運営責任者としての辣腕を養い、支えていくことになります。しかし、こうした八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍は非常な激務となり、結核を病んでいた彼の体力を奪い、死期を早めた面がありそうです。迫り来る死を予期したからこそ、後世のために「蹇蹇録」を書き残して置かねばならないと、鬼気迫る思いで執筆に励んだ宗光の姿勢には、敬服せざるを得ません。近現代に書かれた政治家の著作として、これほど率直で、臨場感に溢れ、文章の格調の高いものは、他に類がないのではないでしょうか。
 陸奥宗光は、幕末維新の志士であり、坂本龍馬の愛弟子で、長崎の海援隊の中心メンバーでもありました。彼の愛妻・亮子に送った手紙を読むと、細やかな心遣いと愛情の深さに打たれます。これほど高潔で私心のない、優秀な人物は、今の日本の政治家や外交官にいるのか、すこし寂しくなるほどです。

 「蹇蹇録」(けんけんろく)では、政略家、外交交渉家としての辣腕、透視力に感心する一方で、朝鮮半島の国と人びとに対する侮蔑的な態度、大日本帝国が「大陸」にのしていくための、手段として「半島」経営を考えていく、徹底して功利主義的な考え方に驚かざるを得ないところがあります。これはその時代の人間の限界でもあるし、宗光自身が置かれていた立場がしからしめたものでもあったのでしょう。あるいは、獄中で真剣に原書を勉強し、翻訳まで行った、英国の哲学者・経済学者ベンサムの影響もあったかもしれません。
 陸奥は息子の一人を、足尾銅山の所有者・古河市兵衛に養子として与えていますし、足尾の資源調査にもかかわっています。その点では、NHKの大河ドラマで今をときめく渋沢栄一もまた、古河に協力する、陸奥の盟友の一人でした。ですので、古河はもちろん、渋沢にも陸奥にも、その後の銅山開発、採掘、有毒な鉱滓の河川への直接投棄によって、環境が広範に汚染されたり、農民が田畑を失って流亡化するような事態が起きても、反省したり、真剣に対策を取る行動にはつながらなかったように見受けられます。
 西南戦争後、反乱の一派として、獄につながれ4年を東北で過ごした間、古河の継続的な支援を受け、留守を預かる妻・亮子一家の生活に不安がないよう宗光は腐心しています。その面からも、終生彼は古河に恩義を感じていたのでしょう。
 このへんのところが、足尾銅山の公害が起きたときに、陸奥と田中正造の立場を分けることともなったのだと思います。
 もう一つ、宗光と正造の立場・意見をくっきりと対立させるのは、東学農民戦争への評価です。宗光は東学の叛徒を鎮圧、征伐すべき対象としか見ていませんでしたし、日清戦争遂行の邪魔を除くためには東学農民への徹底した「流血の弾圧」も辞さなかったと思います。この点は、侯爵井上馨も同様でした。しかし、東学農民、特に、指導者の一人である全琫準(チョン・ボンジュン)などは、若い日の陸奥や渋沢がそうであったように、西欧などの帝国主義の国々を攘夷し、東学という新しい宗教思想に基づいて、国の独立を守りたいとする志の強い人たちで、その意味では、両者が理解し合えた可能性はあったのかと思います。しかし日本側にそのような態度で臨んだ人は、例外的に田中正造がそうであった程度です。東学党の指導者、全琫準について、正造の日記には次のように記録されています。

 「全琫準(ぜん・ほうじゅん)、字(あざな)ハ祿斗(ろくと)。謀略ニ富ムトイヘドモ公明正大ヲ以テ自ラ改革ノ業ニ任ゼント欲ス。然レドモ祿斗ノ志ハ宗教ヲ以テ根本的ノ改革ヲ試ミント欲ス。但シ朝鮮ノ国教ハ儒教ヲ以テ人心ヲ圧政セルヲ以テ、祿斗ガ刷新ノ宗教ヲ忌ミ叛心アリト誣(し)ヒテコレヲ捕ヘントス。部下コレヲ怒リ遂ニ兵ヲ挙ゲザルヲ得ザルニ至ル。祿斗一人兵を挙グレバ一人ハ全党ニ関スルヲ以テ東学党全体兵ヲ挙グルニ至ル。故ニソノ首領ハミナ死ヲ倶(とも)ニシテ日本兵ニ斃(たお)サル。朝鮮百年ノ計ハ精神ヨリ改革セザレバ不可ナリ。軍隊知ラズ、コノ新芽ヲ蹂藉(じゅうせき)ス。惜哉(おしいかな)」(明治二十九年)

全琫準 - 捕縛後の写真(1895) 「出典:ハンギョレ新聞社」

4.戯曲「海城発電 ― 四つの国の物語」(総合演劇雑誌「テアトロ」2021年7月号)

 今回発表した戯曲では、鏡花の原作に基づく、看護員神崎と百卒長海野(うんの)の対決を描く第二幕に続いて、第三幕では、農民戦争の指導者・全琫準と討伐側の指導者・日本陸軍少佐、南小四郎の二人の独白を、交互に語らせると言う手法を、私は取りました。
 鏡花の原作「海城発電」を下敷きに、明治・大正・昭和の三代、日本、朝鮮、清国、ロシアの四ケ国にわたる、より大きな構想の物語として、拙いながら劇の台本を書き上げました。 
 その理由の一つは、今日あまりにも韓国にたいするバッシングやヘイトスピーチ的な言動が日本社会に横行していて、これは難民など外国人一般に対する私たちの社会の冷淡さともつながるものですが、そのへんのナラティブ(話法)を少しでもより共感的、相互理解的なトーンに変えたいな、という思いが切にあったことです。
 私にとってはその意味でのロールモデルは、江戸時代に日韓理解のため朝鮮通信使の実現に献身した雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)、明治以降朝鮮の優れた文化・工芸の紹介に努めた柳宗悦(やなぎ・むねよし)です。

 こう言った発言をする一方で、私は北朝鮮で起きているはなはだしい人権侵害の状況を座視できないと考え、尊敬する小川晴久教授のNGO「No Fence」などを支持する立場であることもはっきりさせておきます。

 最後に、この「ひとりごと」の結びとして、平成天皇が平成13年のお誕生日に、韓国との関係について記者団の質問に答えた次のお言葉を引用させていただきたいと思います。

(宮内庁HPより)
 「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

 しかし,残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。

 ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。」

(宮内庁HPより)

(了 2021年6月17日)

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