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1980年 タイカンボジア国境 難民支援医療バス 「飯舘号」 《Dr.本田徹のひとりごと(85)2023.9.9》

 NGOシェアはこの8月に40歳となりましたが、原点は1980年(昭和55年)に始まったタイカンボジア国境での難民救援でした。当時、若い駆け出しの医師だった現代表の仲佐 保さんが、日本政府派遣チームの一員として、カオイダンの難民キャンプに出かけ、お連れ合いの直子さんと巡り会ったり、日赤からの派遣で、初代のシェア代表の金田衛さんが赴かれたり、国境のレントゲンチームで元AJF(アフリカ日本協議会)代表の林 達雄さんが活躍されたり、と言った懐かしい思い出がいっぱいあります。

 私自身はたしか1982年に、カオイダンキャンプに1週間ほどお邪魔して、当時青年だったJVC(日本国際ボランティアセンター)チームの蓮尾慶治さん(現シェア監事)、栄養士の浜野敏子さん(先日のシェア40周年の集いにも参加してくださいました)に案内されて、小児の栄養改善のプロジェクトなど見せていただいたりしましたが、本格的にカンボジアと関わるようになったのは、元JVC代表の熊岡路矢さんのご配慮で、カンボジア国内を訪ねた1987年からでした。

 今回、熊岡さんが飯舘村を訪問されるということになり、その前に教えていただいたのは、なんと1980年JVCがタイのバンコックで産声をあげたころ、いちはやく飯舘村が、難民医療のための巡回診療車「飯舘号」を、募金を原資にして難民キャンプにプレゼントしていた、というすばらしい史実があったことでした。当時多分村の職員でもあった大倉在住の佐藤 信明さん(今ご存命なら90歳くらいになられていることでしょう)が発起人となり、全国に呼び掛けて寄付を募り、いすゞかどこかのバスを改造した病院車を現地にまでご自身で届けたと言います。当時の全国紙の記事やNHKのドキュメンタリーにもなっているようなのですが、不覚にして私はまったく知りませんでした。

飯舘号(1980年)

 今回、前田の長谷川花子さん(亡夫の健一さんは、原発震災直後、村のリーダーとして、自身の安全や健康は後回しにして、高度放射能汚染下の村で住民の救済と避難に奔走し、甲状腺がんで2年前に急逝されました。土井敏邦さんの「飯舘村」にも登場されています)に軽い気持ちでお尋ねしたところ、なんと古い村の資料に当たってくださり、写真にお示しするような資料を発掘してくださいました。

 花子さん、本当にありがとうございます。

 いまや飯舘村民の一人となった身としては、こんなにすごい篤志と行動力をもった先輩がいらしたことを誇らしくも思います。

 今月の中旬ころに熊岡さんが当村にお見えになったら、当時のことを知る方々にもお会いできることを念願しています。

 (2023.9.9)


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