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「ごく普通の人」

人は環境に否が応でも大なり小なりの影響を受ける、という考えを和辻哲郎の『風土』の勉強をした際に強く意識するようになった。というわけで、湿気に少し気分をやられる今日このごろ。

今日、ふと目について追いかけてしまった記事の発端がこちら。

ジャーナリスト石戸諭さんの書いた百田尚樹さんに対する記事に対し、ジャーナリスト(と括りきれないが)の津田大介さんが朝日新聞に出した批判的な記事に対する言及を外野的に見る記事が上記のものだ。

石戸さんの元記事はこれらの議論をきっかけにネット上でも公開されている。

今回の一連の記事でキーワードになったのが「ごく普通の人」というものだ。石戸さんはハンナ・アーレントを引き合いに出したことばだと下記の記事で述べている。

以下、抜粋。

私が「ごく普通」という言葉を使うときに、むしろ意識していたのは第二次世界大戦を経験し、全体主義について思考を続けた政治哲学者ハンナ・アーレントの大衆社会論です。特に大事だったのが、目の前の現実から離れ、誰かが作った「虚構の世界への逃避」が全体主義の原動力になったという分析でした。
逃避する「虚構」の論理はまったくの陰謀論でも、架空の歴史でもなんでもいいと読解でき、今読んでも、否、今だからこそ、アーレントの文章はぞっとします。
特集にあたり、自分に課したルールがあります。それはホックシールドの言う「感情のルール」を超えて、思考することです。日本でも欧州やアメリカのような形で、より露骨に――それは現政権よりも露骨な形で――右派的な政治潮流がさらに強まる可能性があるのではないか。その芽はどこにあるのか。
自分が見たい世界、真実と感じられる物語を離れて、対象に接近をしないと見えてこないものがあります。すべてに迫ることはできないまでも、取材を通して、思考することでヒントくらいは掴みたいと思っていました。
それが、どこまで成功しているかは読者の皆様の判断に委ねたいと思います。

第二次世界大戦時にユダヤ人の大量虐殺というホロコーストを引き起こした「全体主義」に対する批判的言及と同時に、アウシュビッツ収容所でユダヤ人の輸送を指揮した「アイヒマン」に対し、「上から言われたことをこなすだけ」の「ごく普通の人」であったことを指摘したのがハンナ・アーレントである。

端的なことばに置き換えれば、「自分の頭で考えること」こそが「人間」であることなんだということを問いかけたのがハンナ・アーレントの政治哲学の真髄にある。

昨今、パフォーマティブな政治やソーシャルメディアを中心とした「群衆」をはじめとしたものが渦巻く「情動的」な世界観が問題視されているし、自分もそのことに対してどんなことばをつむげるのかを改めて考えている。

ハンナ・アーレントの議論の中でとりわけ僕が大事だと思うのが「公共性」の概念だ。

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