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“平成最後”に考える「大学」―ウニヴェルシタスづくりをしていくべし!

2018年度末、明治大学にて「大学フォーラム 大学の危機をのりこえ、明日を拓くために」が行われた。

大学の危機をのりこえ、明日を開くために

というキャッチフレーズが掲げられ、識者4名のプレゼンとパネルディスカッションがなされたイベントで、次回の日程(6月16日)も決まっており、今後も継続的な取組をしていくとのこと。

そこにShare Study代表の僕こととしちるも参加したが、周りを見渡してもほとんど若者の姿は見受けられなかった。以下の連続ツイートでは、若手が参加していないことに対する同様の違和感が綴られている。

これからの大学の問題は基本的に「若手」こそが感じるもののはずである。なぜなら、研究関連職希望であるのならば、研究を持続的に発展させるための枠組みを整えていかない限り、就職口は狭まっていく一方である。

(同時にこれこそが若手がこうしたシンポジウムに気軽に参加する気になれない理由でもあろう。なぜなら、「研究」の評価軸ばかりが大学職員としての就職に有効になるのならば、若手こそが研究成果を出さなければならないように追い立てられるからだ。)

大学に関する問題は多岐にわたるが、シンポジウムに登壇した科学哲学を専門とする山口裕之さんの『「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する』だけでも一冊読んでおくといい。大学が歴史的にどのように登場し、社会的な状況の中、各国でどのように転回してきたのか、とりわけ日本の大学にまつわる現状がどのように社会的な制度・構造・慣習の中で今のような厳しい立ち位置に追いやられているかが概観できる。

今回のシンポジウムで叫ばれたのは、まずは大学改革における現状がどのように展開されているか、言語化し、学術研究に関連する人びとで議論を深めていこうというものだった。僕はこの点に関してはまさにその通りだと考えていて、その一つの実践がShare Studyであり、ACADEMIC CAMPであった。

以下の記事ではACADEMIC CAMPにおいて焦点に当てた大学と「学問」「地域」「教育」に関する現状認識も簡易的にまとめている。ただし、2018年春の段階でのまとめなので、今後も継続的にまとめていきたい。

シンポジウムで指摘されているように、現在は教育政策において、「競争」や「効率」を求める新自由主義と呼ばれる言説(社会的に展開されていることばの束や意味づけの総称)が強い。細部に関してはきちんと精査していく必要はあるが、各大学や研究者に対する「厳格な評価」に応じた「資金配分」がなされている現状は、「大学の自治」や「学問の自由」をあからさまではなくともじわじわと減衰させている、という認識は一定程度妥当だと思う。
(もちろん、実際の財務状況や大学への配分を今後の人口減少社会を見据えてどうしていくかは課題で要検討が必要。が、若手に不安をつのらせているばっかりでは人口も研究への従事も厳しいのは明白。)

しかし!そう、問題ではあるんけど、「じゃあ結局どうするの?」ということばを問いかけられたとき、どれだけの大学関係者がしっかりと議論をし、提示していけるのだろうか?僕は正直、なかなか厳しい。もっと学んでいかなければと思うが、院生としてメインの研究に取り組む限りはやはり割ける時間も体力も限られている。今は大学事務のアルバイトも行っているが、研究者の人びとを見ていても、日々の業務に教育に追われていては厳しいというのはよくわかる。

じゃあ、「誰が何をどうやるの?」というと問いにうまく答えられないのは、こうした悪循環があることだろう。頑張って動いてみても、結局のところ、専門的に課題に従事したりできる人は限られている。それはもちろん、能力的にも。

大多数の人がおそらく似たような状況にあるのではないだろうかと推察している。だからこそ、「言語化」の質と量を高め、次世代に向けた継承可能性を高めていくことが重要なのではないかと改めて思うのだ。

改めて「若手」が少なかったという課題は、今後、議論を活性化して引き継いでいくためにも、同様に大学の現状を見直していくためにも、乗り越えようとする価値のあることだと僕は思う。なぜなら、研究は継承できないと持続的に発展できない。大学という場があるのも、学会というシステムがあるのも、論文雑誌というメディアにて査読制度があるのも、これら継承可能性持続的発展性を担保するためにあるのではないか。
(もちろん、だからこそ一定の研究の流行り廃りもあるのだけど。「越境者」や「境界人」が既存の枠組みを打ち壊していけることも研究においては大事)

というわけで、個人的にはShare StudyをはじめとしたWebメディアを活用して、既存の文献や資料を初学者(これは自分も含めて)向けに整理し、必要度の高いものは概説としてまとめていけないだろうかと考えている。

同時に、今、高校生や大学生で研究関連職に就いていきたいと考えている若手向けにディスカッションをメインとしつつの勉強会を作っていけるフレームワークを整えていけないかと。

そこで、試験的に実施しているのが「地域における学び合い文化の育成プロジェクト―Study Town」だ。今はつくばで文理を問わずに、関連する話題や大学教育や科学技術政策に関するゼミを実施している。

また、仙台では東北大学の学部生(代表はシェアスタッフのもっち)が中心となって、「ことばと教育」に関する勉強会を実施している。

特に、地域における人が集う「場」がどのように構築できるのか、について考えていくことも裏の背景としてあり下記のツイートにあるように、時たま「言語化」してくれている。

近代社会の産物として作り上げられていった大学ではあるが、原点となるのはやはりヨーロッパ各地から学ぶ意志を持った人びとが集ってできあがっていった「大学(ウニヴェルシタス)」だ。これだけ、情報技術が浸透した中、もう一度、大学の姿は原点に戻るように位置づけていくことが、「学ぶ・問いを持つ・検証する・学び直す」意思を持った人びとの圏域を作り出せるのではないか。そう、改めて思う。

そういう意味では「大学」とは単なる建造物ではない。あくまで、人びとが集ってできるものだ。

一方、重要なのは学ぶ、話し合うだけではなく、「アカデミック」な学びを深めていくことでもある。単なる学びや言いっ放しで終わらないことが「アカデミック」の一つの意義のはずだ。基本的な資料収集や分析の位置づけ方法はそう簡単に身につくものでもない。基礎学力を高めていく機関としての大学(研究するための能力を身につける)は捨てたもんじゃないはず。

もちろん、単に大学で学ぶことや研究できることがすべてではない。今はさまざまな能力の発揮の仕方があるのだから、安易に「アカデミック」であることへの権威性を高めることもなにか歪みを生み出すと思うし、実際、既存の「教育」に対する反感から、「大学」や「研究者」という一種の象徴に対してカウンターされている側面もあるだろう。

そもそも、なぜどのように「大学」は生まれて、日本という地理的・歴史的な空間とその変遷の中にある人びとの価値規範がいかに作られているのか、それがどのように言説空間で機能しているのかということや、日本語話者の言語コミュニケーションに対する理解の深度も高めていく必要があるのではと感じている。
(そのために、僕は言語人類学や批判的談話研究という分野を選んだ)

というわけで、課題は山積みで、5年10年は大学にとっては厳しい状況が続くのではと推察している。けれど、あまり悲観的なことばかり言って何も動けなくなったり、ニヒリズムに浸ったりしてしまうのも何か違う!

虚栄をはっても仕方ないけど、あえて「むちゃ面白い大学」について語る、語るだけじゃなくて「つくっていく」ことが必要だろう!

ウニヴェルシタスづくりをしていくべし!

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