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批評/批判/対話的なコミュニケーション空間を熟成させたい

ども!Share Study代表のとしちる@ture_tiru)です。

前回の記事では、noteことはじめとして、Share Studyを運営する上でのスタンスである「βという未完であり続ける」ということについて書きました。

記事:「βという未完であり続ける」—noteをはじめるにあたって

サイトのロゴにも、サブタイトルとしても「入門学術メディア」を外し、Share Studyだけでなく、僕が何よりも目指しているのは「批評/批判/対話的なコミュニケーション空間の熟成」なんだという話で終わりました。

順番は逆となりますが、「対話」とは何かから始めさせてください。というのも、批評するのにも、批判をするのにも(大抵、この二つの言葉には否定的なイメージが付いていますが)、何よりも対話的なコミュニケーションを目指して行いたいと考えているからです。

「対話」というと、噛み砕くと「話し合い」という意味合いになるかと思いますが、英語では「dialogue(ダイアローグ)」となります。ダイアローグの反対語はモノローグで、よく「独白」と訳されますよね。対話という概念を学術用語として昇華させた一人に挙げられるのがミハイル・バフチンというロジアの思想家でした。

特に「カラマーゾフの兄弟」の文芸評論が有名で、「複数の矛盾し合う存在」、バフチンのことばで言うと<声>が互いに呼びかけられる応答関係にあるという、概念としての対話が唱えられました。

バフチンの<声>の概念は異文化理解といった文脈で、今も用いられています。しかし、異文化理解とすると(そもそも文化とは何かという話もありますが)、やはり何かしらの領域(国、コミュニティ etc.)に縛られた価値観のように捉えられますが、もっと細かく言えば個々人においても価値観はさまざまです。

時に価値観は「イデオロギー」、つまり何かしらの信念体系から解釈され、そのコミュニケーションのやり取りの中で力関係も表れます。すなわち、消される<声>もあれば、浮かび上がる<声>もあるということです。

社会や文化の中で起こるコミュニケーションを捉える時、そうした理解やすれ違いというものは往々にして起こりえます。いや、むしろ常に起こっていると言っていいでしょう。

ことばは理性的な道具として厳密に用いることもできれば、感性的な道具として共感を想起させることもできます。理性によって価値観をあぶり出したり整えたり、感性によって価値観を共有したりすれ違わしたり。

コミュニケーションを読み解くためには(完璧に読み解くことはできない…)、理性と感性の両面からことばと向き合うことが必要というわけです。

僕は筑波大学の国際総合学類というとこを卒業して、今現在(18年5月)は同大学院の国際日本研究専攻というところに所属して、社会文化コミュニケーション論を研究しています。そうした僕自身の学術的背景からも、まず持って対話的であるように努力すること、その上で時に批判的にコミュニケーションを読み解くことを志向してきました。

批判というのは、必ずしも否定的な意味を学術的には帯びません。むしろ、対話のための批判が強調されている場合も多いくらいです。批判は良くないと考える箇所を指摘して"検証"するのに対して、世間一般で考えられる批判の否定的なイメージは非難という"責め"であると言っていいでしょう。

批判という学術用語としては、外部的なものに対するものだけでなく、内省的なあり方も推奨することもあります。必ずしも、正しくあれない、良くあれないなりに、"考え続ける"ということが含意されているということです。

ですが、そうした"考え続ける"ということは一見良いようにも思えますが、あまりに追求しすぎると、どこに価値を定めていいか分からずに、永遠と考え続けなければならなくなってしまうことになってしまうでしょう。

となると、問題となるのは一体全体どこで"判断"するのかということです。

その一つの答えとして、僕はエドワード・W・サイードの『知識人とは何か(Representations of the Intellectual)』でのことばを挙げたいと思います。

知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。

要するに、権威としてことばを振りかざすのではなく、周辺的存在として権力を解体することばを用いれる人が、知識人だとサイードは捉えています。

サイードは『人文学と批評の使命——デモクラシーのために』という書籍も出しており、研究者としての地位を固辞して、冷静な観察者であること以上に、ことばの使い手として、<声>を出し世に問うことを推奨していたのでした。

批評は「権力に対して真実を"語ろう"とする」ためにあるのだというサイードの主張に、僕は基本的に同意しています。もちろん、それがすべてではありませんが、ただ知識を知識として身につけるだけであったら、コンピューターでもできるわけです。いや、むしろコンピューターの方が得意でしょう。

今現在、日進月歩の情報技術・科学技術は留まることを知りません。良くも悪くも、グローバル化が進んだ社会に、技術はこれまでもこれからも大きな影響を与えてきた/いくのは間違いないでしょう。

大学も大衆高等教育と呼ばれる高校生の進学率が50%を越えてから、もう10年近くの年月が経ちました。そうした中、種々雑多な人々が集う空間になるにつれ、かつての教養主義的な文化はほとんど解体してしまったと言っても過言ではないでしょう。(そのこと自体は、知の権威をただ振りかざすよりかはマシだとも思います。)

そうした時代的変遷も踏まえて、批評/批判/対話的なコミュニケーションはいかに紡げるのか?これが、僕が何よりも大きく捉えている課題です。

まずは、共存在であることを認知し、個々の価値観を認め会えることを目指せればと思うのですが、やはりこれまでの人間の歴史を学ぶと、これからもそう一朝一夕にことが上手く進むとは思えません。むしろ、歴史を忘れるのが人の性と言っていいでしょう。

ですから、やはり知識や思考が肝要になってくると思います。何よりもそれらを重視できるのが大学という空間だと思いますし、学問的営為によって鍛えられるのだとも思います。

そこで、Share Studyで目指したいと考えているのは、学問を通じて、学び合いを促進しながら、批評/批判/対話的なコミュニケーション空間を長期的に熟成させていくプラットフォームになれたらというものなのでした。

さて、次回はShare Studyの新しいキャッチフレーズとして考えた、「あそび、ゆらぎ、むすぶ。」について語ります!

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—あそび、ゆらぎ、むすぶ。—
Share Study β 青山 俊之
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