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「私たちにとっての"Share Study"」から考える学びの多様性―2018年8月

\Study Talkとは/

学問を題材に、沈黙されていることがらを語り起こしていく教養系のラジオ。「Share Study」を立ち上げたとしちるがパーソナリティとなり、毎月ゲストを迎えて二つのキーワードをもとに語り、学び合います。

▼Study Talk vol.2とその概要

「学際性×オープンサイエンス」をキーワードに、Share Study代表のとしちる@ture_tiru)とゲストの佐藤究@Kiwamust)さんで「学問のアマチュアリズム」についてトーク!物理学を大学院で専攻して研究を行う佐藤さんは「学際性が語られる際に暗黙の前提として各分野の境界を設けており、必然的に学問を語る際には越境と同時に”学際性”が語られる」と指摘し、としちるは「そうした境界線があるのは、研究者集団がいることによって、研究を行うためにカテゴライズされた枠組みを構築する必要がその背景にはある」ということを語りました。つまり、「学際性」ということばはあくまでも「研究者」からのまなざしがあってこその「前提」を持つ「物の見方」であり、大学入りたての新入生にとっては「なんでわざわざそんなめんどくさいことをするのだろう」と思ってしまう要因なのではないかと話し合いました。

情報技術が発展する世界の中で、「オープンサイエンス化」が叫ばれる昨今。これまでの学びとこれからの学びを"今ここ"の現場の中から考えると何ができるのか。2018年8月、僕たちShare Studyのメンバーがそれぞれの観点から「これからの学び」についてnoteで投稿していくにあたっての背景についてまとめます。

テーマ―私にとっての"Share Study"

スマートフォンが登場したこと、通信技術が発達し大容量で高速の通信ができるようになったことなど、さまざまな背景のもとでソーシャルメディアが発展してきたのが昨今です。

例えば、この記事を書いている媒体である『note』も、簡易ブログでありながらも、フォロー・フォローワーの関係が仕組み化されている中で、独自のコンテンツを「販売」することができます。

つまり、誰もがプレイヤーになりえることができ、誰もが販売者として賃金を得ることができる社会に日本はなってきました。

これまでメディア研究では、「オーディエンス」がどのようにメディアからの影響を受けてきたか、いや逆に影響を受けるよりも主体的に読んでいるかといったことが、揺れ動きながら語られてきました。

高橋(2015)『デジタルウィズダムの時代へ 若者とメディアのエンゲージメント』P30から引用

しかし、今やデジタル情報時代の中で誰しもがメディアに「関わり(エンゲージメント)」をするようになってきました。つまり、一概に「オーディエンス(受け手)」と呼ばれるような人はあくまで架空の設定であり、実際は人々は多様な関わり方をしてきているわけです。

高橋(2015)は、能動的-受動的といった二項対立を抜け、「日常生活のパラダイム」から人々とメディアの関わりをダイナミックに読み解いていく複雑系のコミュニケーション・モデルを提示しました。

図1 コミュニケーションモデルの複雑性モデル
下記に図1の説明を引用しますが、読み飛ばして頂いて構いません!

個人のレベルにおける相互作用と自己創造(Xn βn)を通じて、人々は所属する社会集団を形成/再形成している(Yn)。集団のレベルの自己組織性(Xn βn)は個人のレベルの複雑性(Xn)を内在している。集団の自己組織化は再び集団内の個人の相互作用と自己創造のプロセスにフィードバックされる(Yn αn)。人々の相互作用によって創発された文化(Zn αn)は、再び個人や集団へフォードバックされ、各々のレベルでの自己組織化や相互作用を形成/再形成していく(Zn αn)。そのため、マクロレベルの文化変容は日常生活における個人の行為に密接に関係している。

実際、情報技術が急速に発展した背景には、冷戦が終了し、資本主義が台頭化した中での経済活動の活発化があります。切磋琢磨して競争しあった結果、多様な「サービス」が提供化されてきたというわけです。

著しく成長した巨大な企業としてはGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon+Microsoft)が挙げられるようになりました。こうした巨大IT企業のプラットフォームの上で、Twitterやnote(ピースオブケイクス)をはじめとしたIT企業が蠢いています。

「プロフェッショナル」と「アマチュア」という境界線が徐々に融解してきたのはこういった背景があって成り立っているものです。先程も書いたように誰しもが情報の発信者であり、利益を得るプレイヤーでもありえるのです。

こうした状況は教育環境や研究環境にも変化をもたらし始めています。今やネット上でハーバード大学の授業が受けられてしまうのです!OCW(Open Course Source Wear)やMOOC(Massive Open Online Courses)をはじめとして、オンライン上で大学の講義を受けることができ、MOOCにおいては単位さえもらうことが可能な仕組みとなっています。

カリフォルニアの企業Study.comは、私企業としても高等教育レベルのミニオンライン動画を大量にアップロードし、大学の単位を取得できる仕組みまで整え、オンライン講義を行う私企業の中でも成功した会社だと言われているそうです。

学びの門戸はどんどんと開かれています。誰しもが学ぶことができ、誰しもがプレイヤーとして活躍できる、そんな時代にすでになっていると言えるのでしょうか?

ここでは改めて「公」と「私」のあり方が再検討され始めていると言えるでしょう。

実際、ITを活用できるのは一定の富を持つ家庭ですし、先進国と新興国、途上国とでは事情が異なります。

さらに、「自分自身で」学ぶことができたとしても、その学びの「中身」はどこまで価値のあるものなのかも問われることは不可避です。「なんでもあり」の単なる「多様な読み」ではいけないということが批判的に検討されてきたのが、先程挙げたメディア研究における特にカルチュラルスタディーズという分野なのです。

昨今、アクティブ・ラーニングが教育においても重要視されるようになりました。アクティブ・ラーニングとは学習者たちによる主体的な学びをサポートする教育のことを指します。グローバル化が進み、変化の激しい時代に対応するためにも、「主体的」で「能動的」な意欲的な学びをするような教育をしていこうというものです。

しかし、ここでも問われるのは「学習者」と「教師」の関係性でしょう。教師はあくまでも単なる学習者のサポーターでしかないのでしょうか?学習者は主体的に学びさえすればよいのでしょうか?

この問の根底にあるのは、おそらく「価値」の問いです。

教育というものの根底にあるのはどのような価値なのでしょうか?
教育をめぐってどのような価値が対立しているのでしょうか?
そもそも人は社会とどのように向き合って生きていくものなのでしょうか?

学びのあり方も生き方も確かに「多様」です。ですが、それを単なる多様として済ましてしまうのではなく、実際にそれぞれが時にぶつかり、時に調和し、時に離れていく、そうした人と人のコミュニケーションのあり方が今、大きくは問われていると言えるのかもしれません。

一見、関係がなさそうに見えるさまざまな出来事や社会文化も、こうして重層的な関係性を持っています。さて、複雑化したこの現代社会において、「私たちにとっての"Share Study"」とはなんなのでしょうか?

ぜひ、メンバーの投稿をお楽しみください!

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—あそび、ゆらぎ、むすぶ。—
Share Study β 青山 俊之
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