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「レディ・プレイヤー1」について

 4月21日に「レディ・プレイヤー1(以下「RP1」)」観た直後の感想ツイートはこんな感じです。

" 「レディ・プレイヤー1」観てきた。予備知識ゼロで観た方がいいと思うんで内容書かないけど
・IMAX3Dが絶対オススメ
・情報量が相当多いんで吹替もいいけど字幕だと日本語が際立つシーンあり
・80 'sをコアとするポップカルチャー好きなら死ぬレベル
・結論としてやっぱスピルバーグにゃ敵わない "

 本作は取りあえず予備知識なしにサプライズを楽しみながら鑑賞すべき映画かと思い、内容には全く触れないツイートをしましたが、「ブレードランナー2049」以来、色々と思うことが湧きあがってくる映画なので、こちらで改めて感想を書くこととしました。

  −以下思いっきり「RP1」のネタバレしてますので注意−


 まず、本作における物語の構成について、大まかに言えば「スター・ウォーズ」と「市民ケーン」のフォーマットを用い、現実と夢の関係性を重層的に描いたものであると解釈している。

 前者の「スター・ウォーズ」に関して(そもそも本作の原作が「ゲームウォーズ」というタイトルであることから言わずもがなかもしれないが)、未来のオハイオ州コロンバスにおけるゲットーとも言える集合住宅街に住む主人公ウェイド(パーシヴァル)の造形は、両親が不在であり、叔母に育てられ、未だ何者でもなく、閉塞しきった現実世界に辟易とし、ここではないどこかに夢を思い描く若者という、多分にルーク・スカイウォーカーを想起させるものである。

 ウェイドはレジスタンスとして巨大な組織に抗い、試練と成長が描かれる中で、叔母の死、メンター(本作においては、ハリデーがその役割を担っており、ジェダイマスターを思わせるケープを着込み、第一の鍵をウェイドに授ける際には「パダワン」という台詞も使用される)による導き、また、相対する敵役として登場するノーラン・ソレントは、特にポッドに収まった姿等にはダース・ベイダーを、統一されたコスチュームを纏うシクサーズにはトルーパーを、第三の鍵を巡る攻防にはデス・スターにおけるそれを思い起こさずにはいられない。

 一方、後者の「市民ケーン」について、1941年に公開されたオーソン・ウェルズによるこの名作を要約すると、主人公である傑物チャールズ・F・ケーンは、幼少時代に両親の元を離れ、資産家に養育され、後に新聞社を大成功に導き圧倒的な富を築く。さらに世界中の夥しい美術品、ノアの方舟に匹敵するほどの多種多様な動物等を収容し、「ピラミッド以来の巨大な個人施設」とも形容される宮殿「ザナドゥ」を建設する。

 「市民ケーン」は主人公ケーンの死から物語が始まり、死に際に発した言葉「バラのつぼみ」とは何であったのかを追い求めながら、得てして逸話だけが語られがちなケーンの人間性が紐解かれていく中で、その意外なパーソナリティの核心的存在とも言える「バラのつぼみ」が明らかになるという構成が取られている。

 「RP1」においても物語は圧倒的な富を築いたハリデーの死から始まる。ハリデーにとってのザナドゥがオアシスであり、その生前が紐解かれる中で、意外な人物像が浮かび上がるという構成の類似性に関しては指摘するまでもなく、「RP1」の中盤と終盤において「ハリデーにとってのバラのつぼみ」といった台詞も使用される。

 また、「市民ケーン」における、ケーンと志を同じくし、新聞社を支えた盟友リーランドとは次第に意見が食い違うようになり、やがて決定的な別れが訪れるという関係性はハリデーとモローのそれにも当てはまる。

 このように「RP1」は、何者でもない主人公ウェイドが様々な試練を乗り越え、やがて英雄となる「未来に向かっていく物語」、そして、世界を変革し、巨大な帝国と富を築いたハリデーという傑物の死を端緒に、その人間性を紐解いた果て、まだ何者でもなかったハリデーの核心的存在に触れる「過去に遡っていく物語」の二層構造になっている(そしてここがウェイドがデロリアンに乗り、また、本作の音楽をアラン・シルヴェストリが担当しているポイントとなる)。

 この重層的な構造を取った物語により語られるのが現実と夢(仮想空間オアシス)の関係性。

 辛く厳しい現実の中では、どこにも行けず何者にもなれない。しかし、オアシスでは自分の望む場所に行け、望む者になれる。

 そんなオアシスでウェイドはアルテミス(サマンサ)に恋をするが、サマンサには「私のことを何も知らないくせに」と拒絶される。

 この仮想空間におけるコミニュケーションの描かれ方にはSNS等をしている者なら多少なりとも思い出すものがあるのではないか。相手の素性など全く知らないのに、匿名のSNS等だからこそ言える本音に触れることで相手の本質を分かった気になってしまう関係性と地続きにあるというか。ただし、本作ではそこにこそ可能性を見出そうとする。例えばウェイド、エイチ、ダイトウ、ショウらオアシス上でしか接点がない彼らだからこそ人種、性別、年齢等を超えた本質的な部分で繋がることができ、現実世界では初対面であっても即座に命を預けられるような信頼関係を築くことができる(そして、リナ・ウェイスがここでキャスティングされた意義も窺える)。

 本作のクライマックス、ウェイドは遂にオアシスを手中とする鍵を開け、ハリデーにおける「バラのつぼみ」とも言えるTVゲームに興じる幼少期のハリデーを目にする。

 ゲームはいつか終わる。ハリデーは終わらない夢を追い求めて生涯を終えた。その場で授けられた黄金のイースターエッグはハリデーの生涯を結晶化したものであり、ウェイドはその美しさに涙する。仮想空間と現実世界を跨いで。

 繰り言になるが、現実と夢、本作はその二つを相容れないものとして、どちらか一方が重要であるという描き方はしない。「現実こそがリアル」確かにそうかもしれない。しかし、我々が否応なく接していかなければならない現実=特定のゴールを目指すことを基本とした生活を送る中で、時には逆走したり、迷走したり、寄り道をしたりすることで人生を豊かにするイースターエッグを発見することができるかもしれない、それはゲーム、映画、アニメ等の中に存在するかもしれない、という旨こそ本作におけるスピルバーグからのメッセージではないだろうか。そして、本作「RP1」は、そういった寄り道を多くしてきた人ほど楽しめるようなイースターエッグが至る所に隠されているのだ。

 「RP1」の中に存在する数多くのイースターエッグについて、様々な分析がなされているとは思うが、音楽好きとしてちょっと嬉しかったのが、序盤と終盤に出てきたおばちゃんがポリス「シンクロニシティー」と(第二の鍵攻略の際、「ブルー・マンデー」も印象的に使われた)ニュー・オーダー「テクニーク」のTシャツを着ていたこと。また、サマンサ登場時にはジョイ・ディヴジョン「アンノウン・プレジャーズ」のTシャツを着ていたこと。勿論後ろの二つはピーター・サヴィルがデザインしたもの。