LGBT差別者が使うであろう最後の砦、「生物学的理由」を検証する

LGBT差別を生物学的な理由から正当化できるのか?

「生産性がない」発言をした自民党の杉田水脈(みお)議員と、同性愛その他を「趣味のようなもの」と語った谷川とむ議員(同じく自民党)。反発を招くと十分に予想できる発言をしてしまう軽率さ。意図的だったにしろ本心の差別意識だったにしろ愚かとしか言えない議員たちのニュースを知った際、昔考えた疑問を思い出しました。

僕はここで、LGBTの人を支援する政策を実施すべきなのか、どんな政策がいいのか、税金はいくらかけるのか、という議論をするつもりはありませんが、例の記事について見解を述べておきます。

『新潮45』の件の文に記載されていた、欧米をすぐに見習うべきだと考え無しに主張する人々や一部メディアへの反発、「多様性」だからとなんでも認めればとんでもないことになるかもしれないという懸念、というような杉田議員の主張には、僕も多少共感できます。これらはしっかり考えていくべき視点です。しかし、自分が考える「常識」、「普通」を、さも万人が納得すべしことのように言っている杉田議員の構えには、その言葉のチョイスそのものが多様化する社会への無理解を表すという点で、どうしても賛同しかねます。そして、同性愛を「不幸」と決めつける箇所などからやはり差別意識が文中に現れており、わずかでも自民党や安倍政権を批判すると「パヨク」などとほざく愚民(ネトウヨ)たちが主張するような「おかしいことを言っていない文」とは到底思えない内容であることを、全文を読んだうえで僕は主張します。

さて、議員をディスるのはこの辺で終わりにします。多くのLGBT差別者たちは今のところ「生産性」や「伝統」を武器にLGBTを差別しているようです。現に谷川氏は問題となった討論番組で「『伝統的な家族の在り方であれば~』」という切り口で話していました。ちなみに、アメリカの狂信的な宗教者たちは「神」を免罪符にしているようです。

上記のような差別主義に批判を加えることも重要ですが、ここでは、LGBT差別者、また、不妊症患者差別者や独身者差別者(=ゆがんだ恋愛至上主義者)たちが、文化や伝統を盾にできなくなった際に最後の砦にするであろう、生物学的理由からの差別について考えます。

目次:
【生物学的な理由からの差別とは?】
【生物学的作用は可能にし、文化は禁じる】
【どんな虚構を選んでいくのか】

【生物学的な理由からの差別とは?】
生物学的理由からの差別とは何かをまず定義づけしましょう。要は「生物は子孫を残すものだ。子孫を残す営みこそが自然であり、そうでないもの(非婚・同性愛)は不自然だ。ゆえに禁止すべき、または差別してもいい」という思考回路です。杉田議員の「生産性」は、文脈からして経済発展のために人口を増やす能力のことを表していると考えられるので、もしかしたら通じるものがあるかもしれません。

一見すると、一般人からは伝統的な家族云々の方がまだ共感が得られそうな気がします。「生物学的理由」というと生々しい、などの感覚が起きてしまい、「アットホームな家庭」みたいなものの方が「LGBTは不自然である」と主張する根拠としては納得しやすいのかもしれません。しかし、冷静に考えると、伝統家族云々より生物学的理由はしっかりした根拠に聞こえると僕は思います。僕がこれを感じたのは、捕鯨論争でのこんな議論があるからです。

欧米「日本人は残酷なイルカ・クジラ漁を今すぐやめるべきだ」
日本「うるさい、これは昔からの伝統なんだ。日本の文化に口を出すな」
欧米「こんな残酷な行為が日本の伝統であるはずがない。やはり間違っている」

イルカ・クジラ漁が他の肉を得る手段より本当に残酷なのか、そもそも捕鯨は“日本の文化”なのか(太地町などの一部地方ではなく“日本全体”の!)、という議論はさておき、ここで言いたいのは「伝統だ!」とか「文化だ!」とかは、「それ自体が間違っているではないか」と指摘されれば反論しにくいということです。

一方で、生物は自己増殖する、ホモ・サピエンスは有性生殖生物である、などは明確な事実であり、とてつもない突然変異が起きない限り、いつどこで何時何分地球が何周回った時も変わらないのです。どれだけ愛し合おうと卵と精子がなければ自身の子孫は残せず、どれだけ愛情を注ごうとも養子に里親の遺伝情報は写し取られません。また、心の状態がどうあろうとも、人間はクマノミの仲間がするようには性転換できません。生物学的理由からの差別は、こうした事実を支えにしています。

こうして考えた時、生物学的理由による差別は、一見成り立ってしまうように感じてしまいます。

【生物学的作用は可能にし、文化は禁じる】
しかし、結論から言うとこの差別は成り立ちません。というのは、生物学的理由からの差別は、生物学的効果を勘違いした、単なる価値観にすぎないからです。

これを端的に表した表現が名著『サピエンス全史』上巻にあります。それは「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」というものです。
“生物学的作用は非常に広範な可能性のスペクトルを喜んで許容する。人々に一部の可能性を実現させることを強い、別の可能性を禁じるのは文化だ。生物学的作用は女性が子供を産むことを可能にする。一部の文化は、女性がこの可能性を実現することを強いる。生物学的作用は男性どうしがセックスを楽しむことを可能にする。一部の文化は男性がこの可能性を実現することを禁じる。”

自然淘汰を含む生物学的作用を擬人化することは、自然が同性愛を「禁止し」、魅力のない雄を「罰する」という誤った考えにつながりかねません。実際には、生物学的作用はそんなことをしません。生物学的作用は突然変異、外的環境、捕食者、寄生生物、ホルモンなどなどあらゆる手段を使って(これも行き過ぎた擬人化か?)、あらゆるものを可能にしてきました。その過程で消えていってしまったもの、変化してしまったものが無数にあるというだけです。一説にはサメの歯は鱗がもとになって発達したと言われていますが、自然は「肌を覆うものを食事に使うとはけしからん」などと言ってそれを禁じることはありませんでした。そもそも、社会性昆虫のように、人間の生命観や生殖観念では理解し得ないように感じる(しかし個体ではなく遺伝子の”視点”で考えると納得がいく)生き物も数多くいます。「子孫を残せないから働きアリは全員負け組だ」とかいう人は『利己的な遺伝子』のハードカバーの角に思いっきり頭をぶつければいい。

人間が「不自然」などと呼ぶものは人間の文化の中でつくられた虚構に過ぎません。上記のことを踏まえると、LGBTは本来あるべき生殖の姿を捻じ曲げて不自然だから差別されて当然というのは、ハイギョは魚なのに肺呼吸して気持ち悪いから嫌われて当然、と同じくらいのナンセンスだという主張が成り立つのではないでしょうか。

【どんな虚構を選んでいくのか】
「同性愛者が不自然である」、「生物は子孫を残せなければ負け組だ」などの主張は、生物学的な真理ではなく、生物学的作用に関する知識をもとを文化が創り出した虚構です。

しかし、「虚構だから全部否定してしまえ」は暴論です。先に紹介した『サピエンス全史』でも語られた通り、僕たちが現在ポジティブに捉えているもの、社会の秩序を保っているものもすべて虚構なのです。「人類はみな平等である」、「人は皆生まれ持って権利をもっている」、「お金には価値がある」。これらは全て大嘘です。そんなわけがない。

生まれ持った遺伝情報が違うなどというミクロな次元から語るまでもなく、人は皆それぞれ違っています。しかし、平等な人類だと考えるから成り立つ秩序がある。権利も人間が社会秩序のために生み出した概念です。基本的人権とかいう戯言が本当に戯言と皆に受け取られてしまえば、気に入らない奴は殺して、いいと思った異性はレイプし放題です。1万円札がただの紙切れでしかないと日本国民全員が本気で信じた瞬間、日本、いや下手すれば世界経済が崩壊します。

虚構の全てを否定することはできませんが、僕たちは「どういう虚構が社会を良くするのだろう」と選ぶことはできるかもしれません。「社会を良くする」なんて言い方は意識高い系の学生みたいで嫌ですが、寛容さも規制も含め、どんな虚構が社会を良くするのかを考えるのが、社会を良くする第一歩ではないでしょうか。

超個人的な価値観として、僕は「自然環境は美しく素晴らしいものである」、「LGBT差別を含む差別思想はほとんど全てがバカげている」などの虚構がよりよい社会を作ると信じているので、そのような戯言をこれからも発信し続けます。

【参考文献】
ユヴァル・ノア・ハリ『サピエンス全史』上巻 2016年 p187

※本投稿は8月9日、僕のHP『The World of Sharks』に投稿した記事を加筆修正したものです。