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やっぱり僕たちの食べ物は生きていた。アオダイショウを「捕食」して感じたこと

タイトルに「やっぱり」とつけたのは、言いたいことがあまりにも当たり前だからである。

僕たちは動物であり、他の生き物を食べることで栄養を摂取しなければ生きていくことができない。いわゆる従属栄養生物ってやつだ。そんなことは言われなくても分かっているだろう。

しかし、加工された食品で料理し、レストランでは出来上がったメニューを食べる生活では、それを体感をもって理解できている人は少ないと思う。

先日、とある企画で「あの村」を訪れた。友人が村長となって開拓している千葉県のとある村である。「あの村」そのものが結構面白い場所だと思うけど、詳細はまたの機会に(というか村長のホリケンに聞いて笑)。

あの村で食事を準備しようとしている時、村にでっかいアオダイショウが現れた。村に住んでいる通称「野蛮人」が、そのアオダイショウを捕まえて言った。「食おう!」。

野蛮人の方は慣れた手つきで巻き付いてくる大きなアオダイショウを押さえつけ、その首を切り落とす。首がなくなった後も、全身筋肉と言える長い胴体は力をもって動き続け、その首も何かに食らいつくようにもがいていた。

別に特別グロテスクだとは思わなかった。アオダイショウに意識があったのか、どの程度痛みがあったのかは想像するしかないが、首が落ちた体の皮をむき遠火で焼き始めると、それは「生き物」から「食料」に変わった。

僕はサメについて学ぶ過程でサメの死体の解剖や解体を見たり、自分でサメの首の除肉をして顎骨標本を作ったりすることがあるので、生き物、肉、死体と呼び方は違えど、全部生きていることは知っているつもりだ。それでも、目の前で死の瞬間まで暴れもがくヘビを見ると、さすがに少し可哀想という気持ちもあったし、あらためて「ああ、やっぱ食い物ってみんな生きてたんだよな」って思った。

僕はベジタリアンを推奨しているわけではない。肉を食っていいと思う。ただ、僕たちの食べ物が全部生きているものだっていうのを、こうした体験により理屈を超えて理解させることは大事だと思う。

動物倫理において重要な意味を持つことは間違いない。ただ、僕は環境保護においても大事だと思う。

僕たちの食べているものがどこか工場で無から作られているわけでも、天から降ってくるものでもなく、自然に生きる命であると本当の意味で理解すれば、住処であり食料の供給源である自然をどうでもいいと考えるアンポンタンはいなくなるし、いたら駆逐されるだろう(食糧生産は供給安定のために自然を真似るするか自然の力を利用しているシステムなので、自然無しでは自立できない)。食べ物を大量に無駄にすることも、過剰に食って病気になる人間も少しは減るはずだ。

動物を殺すなとは言わない。肉を食うなとも言わない。工場制畜産のようなシステムの度合いはともあれ必要な場合もあると思う。それでも、「命を食っている」という感覚は、教育として絶対に教えるべきだし、それを知りもしないで「残酷」とかいうオタンコナスは、ジャングルにぶち込んで目を覚まさせた方がいい。

ちなみに、アオダイショウの肉は、骨が多かったけど美味しかった。写真は村から持ち帰った首を液浸標本にしたものである。