3月13日(火)晴れ

人間ってみんな同じだと思っていた。なんと、高校生ぐらいまで。

夕方、眠さに負けて少しだけこたつでうたた寝をした。目が覚めると2DKに1人だなあと実感して少し寂しくなる。これに呑まれてしまうとどんどん寂しくなっちゃうので、急いで近くに置いておいた本を開く。宮下奈都さんのエッセイ集、『緑の庭で寝ころんで』
その中の、「大きな声」というエッセイを読んだ。宮下さんは娘さんに、「大きな声を出せると、えらいかな?」と聞かれる。「大きな声が必要なときってあるね。出せるといいよね」と答える宮下さんに、娘さんは、「どうしても大きな声が出ないの。でもね、やればできる、っていわれるんだ」と続ける。

やればできる、じゃないこともあるって知ったのはいつだったか。わたしは比較的「やればできる」人で、できないのは運動ぐらいだった。それが、数学の出現によってボロが出始めて、高校では歴史も「やってもできなく」なってきた。「やればできる」のが人間だと思っていたので、びっくりして、焦った。
わたしはまた、あるべき姿にはまるのも得意だった。期待されている役割をやる。これって結構、「やればできる」と関係があるのではないかと思う。だから、今やるべきこと、ができない人・そうしない人のこともよくわからなかった。

つまるところ、わたしは、「人間」にはたったひとつの理想型があると思い込んでいたのだろう。個人差の存在を知識としては知っていても、うまく像を結べていなかった。これによって、多分たくさん無神経なことを言ってきたと思うし、他人も自分も傷つけてきたと思う。たいへん失礼なことをしてしまった。人にはやれることとやれないことがあり、得意なことと不得意なことがある。そしてそれは人によって違う。

さらに言えば、欲するものが人によって違う、ということをはっきり理解したのは、なんとなんと、大学に入ってからだった。
宗教が関連する、留学生の多い大学で、信条の違う人とたくさん出会った。あるべき姿があるのではなく、それぞれのありたい姿があるのだと感じた。ノリの違いは暮らしてきた環境や個人の好みなどにも影響されるものであって、どちらかの不完全さから来るなんて言えない。選択や、選択できないものの結果だと、思う。

やればできても、やりたくないこともある。一方でやれないこともある。宮下さんは、娘さんに「えらくなくても、べつにいいんじゃない?」と言ってやりたいという。
一部では声が大きいことが好まれるかもしれないけど、ささやくようなやりとりが好きな人だっている。どれだけのものにOKを出せるか、わかろうと思えるかは、挑戦だと思う。少なくとも自分にとっては。

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