朝倉彫塑館と掛け替えのない体験

そこでしか得られない体験

例えば、どこかの小川であたり一面を飛び交う蛍の光に包まれた、とか、そういう「あの場所でしかできない体験」というのを、みなさんは幾つ、したことがありますか?
(ひょっとすると「チームラボ・ボーダレス」のような仮想的擬似空間の演出でさえ「実体験」という感覚はありそうに思えます。残念ながら自分はそれを体験していないので、ここではコメントしません。)

最近はソーシャル経由で共有されてくる他人のアクティビティを見て「体験したつもり」になっている人が増えているかもしれません。しかし「実際に体験した」人は、その実感が「体験したつもり」とはるかに離れた感覚であるのをわかっていると思います。
端的に言って、人間を形作るのはこの実体験のバリエーションです。何をどれだけ自分のものとして体験してきたか。
そしてその体験を語りなどでいかにうまくプレゼンテーションできるかで、他人があなたに耳を傾けるかどうかも違ってくるでしょう。

さて、このような貴重な体験を提供してくれる場、それも東京の街中にあり、しかもその体験が消えて無くなるかもしれない、ある場所についてこれから書きたいと思います。

その場所は「朝倉彫塑館」といいます。

今から二つのことについて書きます:
- 朝倉彫塑館の魅力とそこでの体験の意味について
- 現在の「再開発」計画と、それによってその魅力が消滅してしまうかもしれないことについて

朝倉彫塑館の魅力について

まずは私自身の体験から書くことにします。
先日、屋上まで上がれるリニューアルが終わったと知人から聞いて興味を惹かれ、何年かぶりで朝倉彫塑館を訪れたのです。久しぶりの彫塑館で、私は素晴らしい体験をしたのです。

彫塑館は台東区の「谷中銀座」の近くにあります。日暮里駅から谷中銀座への下り道の途中で左折して行くか、今回の私のように上野公園から藝大の道沿いに散策しつつ豆大福の岡埜栄泉とオーギョーチーの間の道を抜け、食堂「筆や」の前を左に過ぎ、中華料理の珎々亭とヤマザキYショップあさおか店の間の道から入っていく方法もあります。
この建物は明治から昭和を生きた彫刻家・朝倉文夫のアトリエ兼住居を美術館にしたものです。古びてはいますが財団によってきちんと整備されており、現代ではなかなか見たり感じたりすることのできないものがある場所です。それについて話します。

創作のエネルギー

この建物は全体として3階建てで「ロの字形」をしていて、その一角が洋風建築のアトリエで、他は純和風の住まいとなっています。見学の順路はアトリエから始まります。
アトリエは銅像を制作するための2階吹き抜けの大きな空間で、制作物を載せて上下させるための7トンのリフトまで作ってあり、大きなガラス窓から自然光のよく入る部屋です。現代の彫刻家でも、個人アトリエのこの大きさ・高さと光の処理にはすごいと言うのではないでしょうか。堂々たるブロンズ製の彫像を作っていた朝倉の、創作のためのエネルギーを感じる空間です。

強烈な文化の香り:書斎

自分が庶民として驚くのは、次に現れれる書斎です。小さな小学校の図書館、といった趣の個人用図書室で、アトリエと同様に2階建てを吹き抜いた空間の、三方の壁全部が本棚になっています。残りの一面は全面のガラス窓です。この部屋から隣の応接室へは、本棚の中の「トンネル」のような通路を通って行きます。高いところには梯子を使ってアクセスする本棚には、美術関連書籍がびっしりと詰まっています。部屋の構造自体が「本」という存在に対する畏敬の念を感じさせ、居並ぶ本からは強烈な文化の香りがしてきます。
古来文化人というのはこういう世界を持っているのだな、松岡正剛氏の「本楼」なども、一定のベクトルで整理された本棚になっているのだろうか、と思います。こんなところに住んでみたい、この場所を所有したいと強く感じさせる素晴らしい空間です。

庭と水音の静けさ

その先は、池のある庭を「ロの字」形に囲んだ日本建築の住宅になっています。この部分を細かく語るほどの時間をここで過ごしてはいませんが、自分が「発見」をしたのは、そこから2階へと出て行く踊り場のようになった場所ででした。
そこは4畳半程度の洋間で、椅子が並べてあり、館内を解説するビデオが自動上映されています。ここからもガラス窓を通じて中庭を見ることができます。そしてその静けさに驚くのです。近くに道路がある場所なのに、まったく音がしません。中庭の小さな噴水の、ちょろちょろとした水の音がするだけです。

すっぽ抜けた空

そしてここから中庭越しに見渡せる空が広い。広いというより、見晴らしがいい。庭の向こうに見える屋根の先は他の建物は全く見えず、ただただ青空が広がっているだけなのです。明治時代も今も、全く同じ空が広がっているだけなのだと思います。
窓越しの、水のある庭の先の、ビルや何かが見えない、すっぽんと抜けるような、青空。
この景色が、朝倉彫塑館の一番の宝石です。谷中という「むかしの東京」が残った場所でも、これだけすっきりと余計なものも音もない、居住空間の本質的な美を提示してくれる建物はないでしょう。「あ、『暮らす』ために必要な場所と要素はこういうものなのだな」という特別な実感・体験をもたらしてくれる場所なのです。

文化の香りに完全に包まれた、まったりとした空間:2Fの畳間

順路を2階に上がり、中庭に面した障子窓の開いた、明るく暖かい畳の上に立っていると、もうここでひっくり返って寝てしまいたくなります。多分寝てしまうと係りの人に起こされるのでしょう。

屋上

そしてそこから屋上に登り、また驚くのです。この家の周りには、ごく当たり前の、ビルや木造建築のが雑然と混在したエリアがあるのです。それが屋上に上って初めてわかった。
逆にいうと、今の谷中の都市空間の雑然とした家並み街並みが、彫塑館の中庭からは全く見えない状態にキープされているのです。
ここがポイントです。つまり、この家の中から、屋根越しに外を眺めたときの景観が、明治の頃から変わらずに、保たれているのです。それが、この建物の一番の美点です。家から見た風景がこんなにのほほんとしていることもできるのだ、と、この家は示してくれているのです。

何がすごいのか

結局、朝倉彫塑館の何がすごいのか? それは、この場所に温存されている、創作のエネルギーと、文化の香りと、空間の清浄さの組み合わせです。そしてそれらは、あの建物の内側から見た風景を含めた環境の中だからこそ保存されているのです。
中庭から見る空にビルがあっては起こりえない組み合わせなのです。都会の真ん中で、あのすっぽ抜けた空を見て、住む・暮らすということの本質的な価値や意味を感じられることがこの建物での一番重要な体験なのです。

谷中地区の「再開発」のこと

この谷中に「再開発」の計画があるようです。詳しいことはこちらのページにまとめられています。
- もともと台地にあり、災害リスクが比較的少ない場所
- 戦災の被害が比較的少なく、古い町並みが残って地域の魅力になっている
- 過去の「開発計画」の事情で、建物の高さ制限がより強く効いている。今回その制限が外れようとしている
- 災害時のアクセスルートには弱い
といったあたりがポイントのようです。私が書くよりは、先ほとのまとめのページから必要なリンクを辿って、それぞれの立場で考えていただきたいし、何らかのアクションを取れる立ち位置の方にはそうしていただきたいと思います。

とにかく、あの建物からの景色は、とても大切なことを来訪者に教えてくれる場所であることは間違いなく、文化を維持しようとする立場からは、絶対に守り抜いてもらいたいと思うのです。


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