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フラッシュバック

元より思慮深い性質でない私は、時に相手がぎょっとしてしまうような出来事をあけすけに話してしまうことがあった。しかし、言語化して他人に打ち明けられるということは、過去のこととして消化できているからだと思い、前向きに捉えていた。少し前までは。

愛知県で起きた、実の父親による娘への性的暴行事件についての記事を読んだ頃から、極端に寝つきが悪くなった。過去に受けた性的ないたずらや暴行の記憶がふいに蘇る。もう誰にも傷つけられない、大丈夫だと自身に言い聞かせてみても、自分が汚くて無価値な存在に思えて仕方がなくなる。痛みや恐怖の感覚は当時より薄まっているが、強い恥辱感と無力感に襲われた。

なぜ今になって過去の記憶に苦しまなければならないのか、自分でも不思議でたまらない。消化できていたのではなかったのか。とにかく少しでも現状を改善できないものか、文章化を試してみることにした。今まで誰にも語ったことのない詳細まで、書き出してみようと思う。断片的に思い出す記憶のピースを、できるだけ時系列に並べかえて整理してみる。

まだ保育園に通っていない幼い頃、すでに大人の男性が怖かった。どんな状況でそうなったかの記憶は定かではないが、親類以外の男性に抱っこをされている時、衣服の下に差し入れられた手で、胸、お腹、背中、お尻、足までくまなく撫で回された。なんとも言えない不穏な気配と気持ち悪さに、私が嫌がって身をよじっても容易く制されてしまい、ひどく恐ろしかったのを覚えている。

またある日は、一人で三輪車を漕いでいる私に執拗にまとわりつき、下着に手を入れてきた男性がいた。『イヤーーッ!!』と叫ぶと、男性は逃げて行った。子どもの高い声はよく反響する。大きな声を出したらいいんだな、と学んだ。

また別の日に公園で一人で遊んでいると、中学生の男児に『一緒に遊ぼう』と声を掛けられた。彼は遊具の影に私を連れていくと、無言で私の衣服を脱がそうとした。『イヤ!!』『やめて!!』大きな声で嫌がって逃げ回っても、彼はなかなか諦めなかった。追い回されてジャングルジムの上から下りるに下りられず泣きそうになった頃、通りすがりの大人を見つけた私は『助けてー!!』と叫んだ。大人は一瞬立ち止まってくれただけだったけれど、中学生男児は走って逃げた。彼の姿が遠ざかって見えなくなってから、私も家に逃げ帰った。また後ろから追いかけてくるんじゃないかと思うと、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。

子どもを一人で外遊びさせるなんて、と思われるだろうが、昭和の当時は普通だった。そして幼児に性的ないたずらをしようとする人は結構いた。連れ去られたり殺されたりしなかっただけ、私は幸運なのだと思う。

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