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「禮儀深さ」 釋迢空

※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。
※本来縦書きの文章を横書きにしている都合上、一部に踊り字の「の字点」を修正している箇所があります。


禮儀深さ 釋迢空


 あらゝぎにおける私の關係は、深いかと思へば淺く、淺いかと思へば存外深くて、その中何と言ふことなしに、遠のいてしまつた。あらゝぎの先輩に對する記憶も、まざまざと殘つてゐながら、それもちつとも感情と關係なく、しづかな記憶になつて來ている。
 伊藤先生の生前、根岸の歌會に出た位だから、相當に長い關係だが、其れも更つてあらゝぎに歸つて見れば、何のゆかりもない人間が紛れこんで來たやうな感じを、自分自身で持つた程だつた。それでも、古い昔の薄い關係を辿つて存外好遇を與へられた。
 私が其頃から、岡さんの樣に出來ていた人間なら、いろんな失敗もなく、あらゝぎの爲になることを、幾つも爲殘した筈だが、何分上調子な人間だつたから、さうもゆかなかつた。これは過ぎゆかれた先輩達に對し、殊に齋藤さんに向つて、言い訣のない樣な氣がして自分で赤くなる。
 あれはまだ、編輯同人になつてゐなかつた時分だと思ふ。觀潮樓歌會の頃から、あらゝぎの先輩たちが、しきりに他派の數少い才人等とつきあつて、影響も得たし、こちらからも影響を與へると言ふゆき方を、爽やかな氣持で續けてゐた一時期があつた。これが前には、三・四十部しか賣れなかつたあらゝぎが、久しいあらゝぎ時代を開く基になつた。——そんな點ばかりでなく、文藝運動として、此程交流が自由に行はれて眞に意味があつた。所が私と來ては、舊派は絶對排斥、そのほか文學心を缺いた歌風の歌人の結社などは敵のやうに憎惡した。さふ言ふ頃の私には、此先輩の自由な行動が、大きに心に構つた。自分が眞剣に思つてゐるあらゝぎの先輩達は、白秋・夕暮・善麿、さういふ風に、つきあひをして、その機關雑誌に歌を與へてゐる。その爲に、自分の雑誌に出る數が少いばかりか、古泉さんのやうなのんき 、、、な人は、よそへ出してあらゝぎに出さずにゐる、と言ふやうな事もあつた。實は新入りの若い同人が、そんな事に口をさしはさむのは、よろしくない事だつたと、其後早く自覺した。けれども、茂吉さんの言ひ分ではないが、若い「かつと、、、 する頭」をもてあつかうてゐた時分の事だから、引つこんでゐなかつた。
 富坂の編輯所に久保田さんを訪ねて、かう言ふ風に先輩達がするのでは、根岸派の雑誌だか、よその派の雑誌だか判らない。これでは、私の心の持つて行き所もないから、あらゝぎを止めさしてもらひます。
 何でもさう言ふ荒立つた物言ひをした。久保田さんは其時は笑ひ顔で、輕く聞き流してゐた樣だが、翌日早く私の下宿をたづねて來られた。昨夜あれから、よくよく考へてみて、どうもこれでは、、、、 と思つて、焦慮を感じ出した。其で平福さんの所へ相談に行つて、どうしたらいゝか、考へを聞かして貰つた。ともかく年季の淺い男が、さう思つてゐるのも感心だし、又さう言ふ風に感ぜられるといふやうな事をしてゐるといふ事は、ともかくよくないことに違ひない。だから齋藤君古泉君等に話して、もうそんな態度を止めることにしてもらはうぢやないか。といふ事になりましたから、これから益よくなることと思ひます。だから安心して下さい。あらゝぎの爲に益努力を願いひます。まあさう言つた風の口状をもつて來られたのでお先走りの私も一つぺんに恐縮してしまつた。
 根岸派の歌風が、何所と入り混じらうが、ちつとやそつとで、その風化を受けるやうなものではない。其頃旣に子規・左千夫を傳統の初めに持つてゐたのである。だが、編輯責任者の、あの几帳面な義理堅い赤彦としては、考へれば考へる程、むらむらして來るのを、押へてゐたこともあるのだらう。
 ところがその午後、思ひがけないお客が、やはり下宿をたづねて見えた。茂吉さんである。其時の語は、何分四十年近く經つてゐるのだから、記憶に誤りがないとはうけあへない。私ののために、自然茂吉さんにひけ目、、、 を持たせるやうな表現をしては相すまぬ。唯これだけの意味は確かに言はれた。「あなたにも心配かけた。相すまぬ。これからは僕もあらゝぎの爲に一生懸命になる。あなたもよく手傳つて下さい。」今書けば私が飾りごとを言ふやうに見えるから書かないが、もっと鄭重に、改まつた、本音を吐露した、茂吉らしいものを印象してゐる。
 これは大變な事になつたと思つたけれど、ともかく、何しろ、若輩な人間のすることで、爲方がない。少し得意な氣持になつてゐた。其では、古泉さんが來るかも知れない。と何となく心待ちをしてゐたが、何日經つても訪うては來なかつた。これは古泉さんとしては、自然であつて、又あの人らしいよさ、、 もあると言へるが、どうもその時以来、茂吉・千樫と考へてみると、友達としては、千樫の方に氣のおけぬ所はあるが、……やつぱりどうも、茂吉さんを信頼すると言ふことになる。
 だが、もともと茂吉さんは、勇氣を振ひ起すと、恐ろしいほどの擧に出るが、常は言ひたいこと事も簡単な語ですましてゐる、と言ふ所があつた。弟子や若い同人が叱られてゐるのを見た事もあるが、ま一息あの厭倒力を籠めたものが出て來ない。私なども、文章の上では二・三度相當に叩かれたが、面とむかつては、きつい事を聞かずにすんだ。それがあの人のよい所で、此人においてすら、も一つ、人間どうしのつきあひに物足らなさを感じた譯だ。「少年の流されびと」時代から、根底の强さを掩ふ弱々しいものが出て來てゐたのであらう。併しその弱さは、私の知つた限りでは、常に何か諦めに住する、脱俗したやうなものを持つてゐた。洋行以前には感じなかつたことで、其後はつきり知つた。其は、茂吉さんに、寺の人としての生活氣分が、重文にあつた事である。どうも、金瓶の寺から、近江の番場の方へ移つて行かれた窿應上人の影響が、あの人生得の鋭い氣持を抑へて、あのしづかな生活氣分を出させたのではないか。東京へ來ての長い忍従の生活、それを思ふと、まことに他事ではない。若し靑年時代から老人に到るまで、あの境遇に居たら、私でもあんな怒り方をするやうにならうし、又あゝいふものはかない諦めに似た氣分にもなるだらう。ともかくも窿應さんが、茂吉一代に與へた影響といふものを考へないでは、あの歌もやつぱり判らないのではないかと思ふ。晩年の歌には、好色なら好色なりに、流俗的には流俗らしいものの底に、この心癖が張りついて來てゐる。
 國學院大學に四年制の高等師範部のあつた頃だから、大分以前である。戰爭も四五年後に起つたやうな譯だが、高等師範部の教場で、講義を終つて立たうとしてゐると、「私は齋藤の家にゐます山口と言ふ者です。うち、、の先生が申しました。どうかよろしくお願いひします。」何でもない挨拶だが、行きとゞいたことを言ふ靑年だと思つた。此人が隆一君と言つて、末弟として窿應師のあとを繼いで、金瓶の寺の住職に後になつた。さうして、こんどの戰爭にはす早く、、、 出て、すばやく戰死して了つた。どう言ふ錯覺か、此人を星古ホシコ 某といふ風に思ひ違へて、其後茂吉さんに、「戰爭に行つた星古君、どうしてゐますか」と問うたら、「星古じやないよ、山口隆一だよ、あなたは此前もさう言つたね。」
 そんなことで、私と茂吉さんの間に介在した一人の純な靑年の記憶が残つてゐる、おそらくあの挨拶の美しさも、そんなことに貪著がない風に見える茂吉さんが、存外いろいろと心を遣ふ人だから、あゝした挨拶させたものと、今でも考へる。


底本:昭和28年10月「アララギ」第四十六巻第十号
初出:同上


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