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「「赤光」の著者 一つの惠まれたる友情󠄁の歴史」 佐藤春夫


※素人が、個人の趣味の範囲で入力したものです。
※一通り見直してはいますが、誤字脱字等の見過ごしがあるかもしれません。悪しからずご容赦ください。


「赤光」の著者 一つの惠まれたる友情󠄁の歴史 佐藤春夫


 あれは「赤光」初版の出た直後だから大正二年であらう。年月日の記憶は正確でないが、「赤光」の出た直後で氣候のいい季節であつたことには間違ひがないから多分大正二年の十月末か十一月のはじめごろのやうに推定される。何しろ自分の二十一二のころ、今から四十年あまり前の事である。(この間も珍らしく制服を着てゐる倅を見て、ちやうどあれ位の子供のころだつたのだなとその頃のことを思つたものだが)その頃自分は同じく三田の塾にゐて豫科二年の二年目か三年目の會などに出席してはゐたが、三十一文字の詩形には慊焉たるものがあつて、一方では詩の試作などもはじめ、あとからはじめたこの方が、かへつて性に合つてゐるやうに思へたり、詩歌よりもいっそ散文の方がと思つてみたり、いや繪を描いてみたいなどと迷ひはじめてゐた折からであつた。その自分の目の前へ不意に閃き出したのが「赤光」であつた。新詩社末期の歌以外のものを見ないで三十一文字の詩形が果して近代の詩情󠄁を盛るに足るかどうかの疑ひを持つてゐた自分は思ひがけなく「赤光」の一讀で目が開けたやうな氣がした。その聲調の美とゆたかに純粋な抒情、それから近代的に新鮮な感覺(わけてもほのかに高雅なエロティシズム)、心理的な自己把握などにすつかり感激した結果、自分は「赤光」の著者に是非一度會つてみたいと思ひはじめた。必ずしも會つて敎を請ひたいとか知遇を得ようとかいふ功利的な意圖ではなく、ただどういふ人がかういふ立派な作品の作者だか見たいといふ單純な好奇心みたいなものであつたらしい。その感激とこの子供らしい氣持とは四十年後の今の自分にもよくわかり、自分らしいいかにもさもありさうな事に思へる。しかし手紙や電話などで連絡するやうな面倒な事務をしさうもない自分が、一たいどういふ手順を經てこの希望を實現し得たものやら、その點が今では全く自分にもわからなくなつてゐる。但、その前後に自分は著者の依頼によつて(であつたらうに思ふ)赤光の批評をアララギに執筆したから、或はさういふ事に關聯して自然と惠まれた好機會を捉へたのであつたかも知れない。ともあれ自分は何人の紹介もなく、當時その歌人が勤務中の巣鴨腦病院へ約束(もしくは指定)の日時に單身で訪問したものであつた。この間三田の塾の制服姿の倅を見て、自分が偶思ひ出したのは同じやうな姿で腦病院の受附に立つてゐた自分の事であつた、——ちやうどあれぐらゐな子供だつたのだなあと。
 手順よく應接間に導かれて窓外の木立や庭の草むらなどを見入つてゐると、靴音とともに現はれた人に向き直つてまだ寫眞さへ見てゐなかつた赤光の著者をこの時はじめて見たわけである。先方から氣輕にわが名を呼びかけられ、さて名を告げられた。初對面の挨拶も何もない、多分おどおどと敬意を籠めた無言の會釋ぐらゐしたのであらう。何しろ二十二の靑年で相手は三十に近い人であつた。その淸新な歌風と精神病の醫學士といふ觀念とから何となくスマートな靑年紳士を豫想してゐた自分は、目の前に一向邊幅を飾󠄁らない淺黒い丸顔の下にやぼつたいネクタイを不手際に結んだ村役場の書記か何かのやうな第一印象を受けたのを今もおぼえてゐる。
 豫想に反してゐたとは云へ、この印象は決して惡いものではなかつた。更に口を利き出した素朴な東北辯やその言葉の内容はその人柄の好もしさを刻々に加へて行つた。
 今思ひ出しても最も奇異なのは主客が卓をへだてて相對したのではなく、おおきな橢圓形の卓の片隅に並んで腰をかけて互に低い聲で話し合つてゐたことである。或は一旦相對して席を占めたのを改めて先方から自分に近いところへ腰をかけ直したのであつたのかも知れない。郷里や學校などの平凡な話題のあとでこの畏敬すべき歌人は忽然と、象徴とは何かといふ難問題を子供の自分をつかまへて發した事であつた。その謙󠄁虚な態度とその難問とに自分は實のところちよつと當惑しながらなまわかりの象徴論を多少はしやべつた。何を云つたものやら幸に忘れてしまつてゐて冷汗も出ない。自分にほどよく調子を合してくれた相手は最後に「結局實相の觀入といふことを象徴と解していいでせうか」とまるで敎を請󠄁ふやうな態度に出られたのには更にへどもどせざるを得なかつた。
 かういふ會見の三四十分後に自分はこの尊󠄁敬すべき人物に見送られながらこの病院の玄關を出た。これが自分の齋藤茂吉氏を見た最初の機會であつた。その後に自分は初版「赤光」の批評を書いた。その時は平福百穂氏筆の七面鳥のスケツチのあるハガキに自分の駄文に對して鄭重なお禮の言葉をくれた。自分はそのハガキを大切に保存して置いた筈であるが今は所在を明かにしない。その後自分は靑山に齋藤氏の病院の近くにも住んだ事がありながら再び訪問する事もなく、ただ芥川などとよく氏の噂をするだけで自分の處女出版をも第一詩集等も贈る事もしなかつた。この人に讀んで貰ふに足るといふ自信が無かつたためである。それにもかかはらず先方からはその都度ではなかつたが、目ぼしい出版がある毎に必ず惠投された。また時々いろいろな會合などでよく顔を合す機會はあつた。新らしいところでは二十四年度(?)の藝術院總會ですつかり老體になつて白い髯を垂れた氏から名告かけられて、病後痛ましく衰へたのを知つた。その翌年の宮中のお歌會に陪席した待合室でも言葉を交した。かういふ機會で一番に印象深いのは戰爭のはじめのころ文部省が國民のための歌謠を五六人の詩歌人に作らせた時、齋藤氏は「國土」といふ題を選んでこれ以外の題は作らないと云つたとか聞いたが、自分は「農民の歌」といふ題を與へられ、その作曲の披露音楽會のあつた時、偶座席が隣合つてゐたために演奏の合間などにお互に作詞などに就て多く語り合つた。——その頃はまだ元氣がよかつた。
 文化勲章を受けられた祝賀の會には久しぶりに溫容に接する事が出來るかと思つて出席したが終に出席がなくて失望し且つ病狀を案じてゐたらその後、古稀自祝といふのでのしをつけ赤い紙で帶をした紙包に
  枯枝の秀枝爾
  安り而鳴きそめし
  椋鳥婦たつ春
  呼ぶ羅しも
       茂吉
と掌大の文字を四行に書かれた横物の筆蹟を惠投された。病軀でものされたとも見えない雄健な筆力は頼もしいものでまた、日頃知遇を得た記念にせめては色紙の一枚もと思ひながらその機を失つてゐた自分にとつて何よりも有難い賜に思ひ、残暑見舞を兼󠄁ねてお禮を述べに参上したがお目にかかれなかつたのは殘念であつた。お目にかかつて拙作「佐久の草笛」の早春風景に
  春早きはだれの林
  枯枝にしばうつりして
  めをと鳥囀り交す
  ともずみの樹をやえらべる
と歌つたのが「椋鳥二つ春呼ぶらしも」と偶然同工異曲であらうかと話したかつたのであるが、この話題は終にこれを語る機會を永久に失つた。自分としては永い病床にゐた氏が久しく自分を忘れないでゐて自分のために特に記念品を與へられたのを有難い德とする者である。なほ中陰あけの日は夫人と令息とが鄭重にも訪問されて童馬山房の藏書印のある手澤本「今日の美術」一巻を遺品として與へられたのは重々過分である。
 今日の美術はスゴンザックやピカソその他のデッサンや油畫の寫眞のあるものでその年代から見て氏の外遊中に入手された一册らしいが、氏が近代を攝取するためにかういふ書物に親しんでゐた事實を知るためにも亦好個の資料として自分は永くこれを珍藏するであらう。
 要するに齋藤茂吉氏は生涯自分に恩惠を與へつづけてくれた先輩である。いつの日に如何にしてこの報恩ができるものであらうか。


初出:斎藤茂吉全集第二十二巻月報 昭和28年5月発行
底本:斎藤茂吉全集月報1第一巻 昭和48年1月発行

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