見出し画像

マークの大冒険 古代ギリシア編 | ソクラテスの弁明


紀元前399年、古代ギリシア・アテナイにて___。


ソクラテスの裁判を傍聴するために、大勢の見物人が裁判所に押しかけていた。法廷には裁判長と500名の裁判員が集まっていた。そして、傍聴席にはソクラテスの弟子たちと共にマークの姿もあった。法廷には異様な空気が流れていた。しばらくすると、ソクラテスが姿を表し、法廷が淀めいた。ソクラテスは演壇の左側、右側には3人の告発人メレトス、アニュトス、リュコンが着席した。裁判開始の合図が鳴ると、法廷は静寂な空気に包まれていた。

ソクラテス
ギリシアのアテナイ出身の哲学者。弁論術に長け、人々から注目を浴びる人物だった。一方で、彼に論破されたことで恥をかき、恨んでいる人間もいた。結果、ソフィスト(知識人)を名乗る詩人メレトスという人物によって告発され、裁判に掛けられる運命を辿る。

裁判員
アテナイの裁判員は30歳以上の市民から抽選で6000名が選ばれた。くじ引きで担当する裁判を決めた。ペリクレス(前495頃~前429年)の時代になると、裁判員には日当が出るようになった。

「ソクラテスは、国家が認める神を信仰せず、新たな神を教える背徳行為をし、若者を堕落させた。よって、告発人らが求める刑は、死刑である」

裁判長は罪状を淡々とソクラテスに告げた。そして、告発人のリーダー格で、今回の騒動の首謀者であるメレトスが演壇に上がった。

「この男は、罪人である。これからその真実を明らかにしよう」

メレトスがそう言うと、法廷には拍手が響き渡った。そして、メレトスは得意な弁論で人々を巧みに惹きつけていった。メレトスの弁論が終わり、彼が演壇から降りると、政治家のアニュトス、続いて弁論家のリュコンが演壇に上がって弁論した。彼らの饒舌な語りに裁判員も、傍聴人も惹きつけられていた。マークたちの近くに座る傍聴者が「ソクラテスの奴も、ついに終わりだな」とヒソヒソ声で話していた。告発人の3人は弁論が終わると、余裕の笑みを浮かべ傍聴者たちの席の方を見た。彼らの弁論が終わると、裁判長はソクラテスに演壇に上がるように促した。ソクラテスは、全くの動揺を見せず、演壇に上がった。

「さて、皆は彼らの弁論を聴いて、どんな印象を持っただろうか?割れそうな拍手と美しく着飾った言葉で、私もつい我を忘れて聴き入ってしまった。だが、彼らの言葉には何ひとつ真実が含まれていなかった。多くの嘘の中でも、ソクラテスは口が達者だから騙れるな、というものがあった。私が弁が立つ人間かどうかは、私の弁明を聴けば、すぐに嘘だと気づくはずなのに。それをあんなに自信げに言えるとは、何とも厚かましい人たちだろう。今度は、私が真実だけを話そう。もちろん、告発人の彼らのように着飾った言葉ではなく、皆が慣れ親しんだいつもの私の言葉で話すつもりだ。だから皆は、私の言葉が正しいかどうか、そこにだけ注意を払って聴いていただきたい。今から私が弁明するのは、私に関する悪い噂についてだ。悪意に塗り固められた噂というのは恐ろしいもので、人から人に次々と巻き散らかされ、それを取り除こうにも、なかなかできないものである。それどころか、その噂がいつの間にか人々の中で真実や常識にすり替わってしまう。そんな嘘で塗り固められた噂を、この短い時間内で取り除くことがどれほど難しいことか、私は知っている。先ほどメレトスは、ソクラテスは曖昧な理論を優れた者に見せる方法を青年たちに教えて人を迷わせる、と私に罪を着せた。つまり、メレトスも悪い噂を信じ込んでいるからこそ、そのような言葉が出る。では、一体その悪い噂とは何なのか?ソクラテスという知恵のある者が、天文学や地質学をいろいろ調べ、金を貰って教えている。質問をされて答えられない時は誤魔化し、その誤魔化す方法も教えている。そんな人間は、神を信仰しないに決まっている。これは、全くの嘘だ。私は天文学や地質学のことを教えたこともなければ、金も貰っていない。では、なぜ私に関するそんな変な噂が立つに至ったのか?それは、私にはある特別な知恵があるからだ。人々は、それを妬んだ。そして、私が今から言うことを冗談だと思わず聴いて欲しい。ソクラテスよりも賢い者はいない、という神託を受けた。このことは、私の弟子カイレフォンから聞いた。その弟子も証言人の一人だ。私は、この神託の意味に長い間、思い悩んできた。それで、この国の多くの賢者と会ってきた。そして、正義とは何か、善とは何か、と訊いて回った。結果、彼らに自らの無知を自覚させるに至り、根みを買うことになった。そして、私の問答を真似た青年たちが同じように大人たちに無知を自覚させ、辱めたからソクラテスが若者を堕落させたなどという、最もらしいが嘘偽りの噂が流された。それでどうにか、この私を追い出そうとしたのだろう。メレトスが政治家や弁論家に頼んで裏から手を回し、私を裁判所に引きずり出した。これが、真実である。私の悪い噂に関する弁明は、以上だ。次に、メレトスによる嘘の告発に関しての弁明を行いたい。まず、彼からの告発を整理すると、ソクラテスは国家が認める神を信仰せず、別の神のようなものを若者に教えて堕落させる背徳行為をしていると言っていた。ふむ、若者を堕落させる背徳行為をしている、か。だが、私は言いたい。メレトスこそが背徳行為をしていると。今から、それが真実であることを証明していこう。ではメレトス、そんなところに座ってないで、こちらに来てくれないか?そして、法に従い、正直にキミの言葉を聴かせてくれ。いいか、メレトス。キミは青年たちがどうしたら善良な人間に育つのか、ここに大きな関心があるようだな。これは間違っていないかな?」

「ああ」

メレトスは、静かに頷いた。

「キミは私が青年たちを堕落させたという理由で、この法廷に呼んだ。では、青年たちを堕落の反対、すなわち、善良な道に導く人物について教えてくれないか?」

「......」

メレトスは、ソクラテスの質問に黙り込んでいた。

「どうした、メレトス。随分と黙り込んでいるな。何も答えられないと、キミが青年たちの将来に本当は関心がないことが皆にバレてしまうぞ」

「法だ!」

メレトスは、ソクラテスの皮肉に対し、苦し紛れに答えた。

「優れた我が友よ、私がキミに訊いていることは、人物に関してだ。さあ、もう一度答えてくれ。青年たちを善良な道に導く人物とは、一体誰なんだ?」

「そこにいる裁判員たちだ!」

メレトスは、苛ついて叫んだ。

「なるほど、それは素晴らしいことだ。こんなに多くの人々が青年たちを善良な道に導くというんだからね。では、政治家はどうなんだ?

「もちろん、政治家も青年らを善良な道へ導くに決まっている」

メレトスはそう答えるが、ソクラテスの質問に答えるほど、自分で吐いた嘘の糸にどんどん絡まっていった。

「メレトス、ならば馬の調教についても教えてくれないか?良馬を育てるのは、数少ない腕の優れた調教師。馬の知識に乏しい多くの人間が馬を育てれば、良馬に育てることはできないだろう。キミの理屈では、良馬を育てるのは大勢の人間で、馬を駄目にするのは、私のような一人の人間なのだろうか?正しいのはどちらだろう、メレトス。馬に限らず、他の家畜についても、それこそ人間についても同じではないのか?たった一人の人間が青年たちを堕落させ、他大勢の人間が青年たちを立派に教育できる。キミは本気でそう思っているのか?これではっきりしただろう、メレトス。キミは青年たちの教育に始めから関心はないんだ。これでキミの言葉は、嘘だと分かった。さあ、次の罪状に移ろう」

「お前は、神の存在を認めない罪を犯した!」

メレトスは、ソクラテスに苛立って叫んだ。

「キミの最初の告発内容は、私が青年たちに別の神の存在を教えている、ではなかったかな?神の存在を信じていない者が、別の神の存在を青年たちに教えるとは、一体どういうことなのか?矛盾していないか?キミの告発が嘘であることが、これで分かっただろう。さあ、これでメレトスが告発してきた内容が嘘であることは、皆にもよく理解できたと思う。ただ、こんなことをして、ソクラテスはいつか殺される、と皆は思っているかもしれない。だが、心配はご無用。私は死を恐れていないからだ。死を恐れるとは、本当は賢者ではないのに賢者であると思い込むのと同じことだ。なぜなら、ここにいる誰もが死を経験したことがない。もしかしたら、死は最も善いことなのかもしれない。だが、人は死ぬことを最悪の災いと恐れ、忌み嫌う。知らないのに、知っていると思い込んでいるのだ。私は、知りもしない死を恐れるようなことは決してしない。私を無罪にし、釈放する条件として、これまで行ってきた活動を止めろというなら断ろう。それは、神からの使命だからだ。何度殺されようとも、私は自分の生き方を変えるつもりはない。今から私が言うことに対し、皆は怒るかもしれないが、敢えて言わせてもらおう。私が弁明をするのは、皆のため、国家のためだ。なぜなら、私は神からこの世界に遣わされた贈り物だからだ。私を処刑することは、神からの恵みを粗末に扱うことと同じ。そして、もうひとつ言っておこう。私は、誰の教師でもない。相手と問答しながら、考えを比べ合っているだけだ。告発文には私が青年たちに何かを教え、堕落させたとあるが、私は何も教えたことはない。この法廷には、幸いにも私が知っている者たちばかりだ。一緒に問答した者たちが大勢いる。私の言葉によって、害を受け、自分や身内の誰かが堕落したという者がいるなら、今すぐ申し出てくれないか?」

法廷内の者たちがお互いの顔を見合うが、前に出てくる者は誰もいなかった。

「やはり誰も出てこないようだな。感謝されることはあっても、被害を申し出る者がいるはずないのだ。だが、私は自分の無罪を懇願するような人間ではない。皆からの裁きを静かに待とうと思う。私の弁明は、以上である」

ソクラテスは、静かに席に戻っていった。

「それでは、裁判員の諸君、判決の票を願いたい」

裁判長がそう言うと、裁判員らは札を投じていった。全ての票が入れ終わると、書記官が結果を読み上げた。

「無罪220票!有罪280票!」

裁判の結果が伝えられると、会場はざわめきに満ちた。

「結果は、有罪。だが、有罪を認めて反省の弁を行えば、その態度を鑑み、罪を軽くする処置も検討している。ソクラテス、最後にもう一度だけ弁明の機会を与える」

裁判長はそう言って、再びソクラテスに演壇に上がるよう促した。

「私は、この有罪という判決について怒りも驚きもしない。思っていた通りだ。有罪と無罪の差が少なかったことは、少し意外ではあったが。メレトスは、アニュトスやリュコンといった政治家や弁論家たちの力を借りて、この裁判を起こした。にもかかわらず、これしか票の差がないのなら、普通に裁判をしていたら、どうなっていただろう?メレトスの方が虚偽の裁判を起こした罪で、多額の賠償金を払うことになっていただろう。メレトスは私の死刑を求めているが、私が本当に受けるべき刑罰、償いとは何なのか?市民の人格が善良となる活動をしていた私が受けるべき刑罰は、一体何なのだろう?はっきり言わせてもらおう。私が受けるべきは、刑罰ではなく褒美である。国家の功労者が口にするような豪華な食事を与えよ。これは決して私の傲慢さからくる言葉ではない。私はどんな人に対しても、悪意を持って接したことがない。ここにいる多くの人々は私を追放し、私がどこかで息を潜めて暮らすことを望んでいるのかもしれない。だが、それは不可能と言っていいほど困難を極める要望だ。善とは何か、徳とは何か、そうして人々と語り合うことが、私にとって最も好きなこと、幸福なことだからだ」

「ソクラテス、あなたの勝ちだ!それはもうみんな分かってる!でも、この裁判は仕組まれている!!形だけでも罪を認めるんだ。そうすれば、死刑は取り下げられる。ボクらみんなで銀貨を集めたんだ!あなたを救うためにドラクマ銀貨を!あなたがここで死ぬことは、ギリシアだけじゃない、この世界全体の大きな損失になる!!駄目だ、こんなの絶対!!」

このままだと有罪が判決が下されることを悟ったマークは、耐え切れずに勢い良く立ち上がり、傍聴席から声を荒げて叫んだ。

「黙りなさい。傍聴席の人間に発言権はない」

裁判長がマークに注意し、彼は仕方なく着席した。

「では、判決結果を読み上げる」

裁判長がそう言うと、書記官が結果を朗読した。

「有罪360票!無罪140票!」

「ソクラテスを、死刑とする......」

裁判長は、声を震わせながらソクラテスに宣告した。

「私など放っておいても死がそこまで迎えに来ている老人だというのに。私に足りなかったものは、何だろうか?それは邪悪な心だ。邪悪な心がないがゆえに、私は嘘がつけない。どんな危険が目の前にあっても、自分に嘘がつけないのだ。死を逃れる方法など、探せば幾らでもある。だが、邪悪な心から逃れることの方が遥かに難しい。有罪と断じた皆に告げておこう。これより先、ゼウスの名により、あなた方には死よりも重い罰が下されるだろう。私の死後、多くの若者が私の意志を継ぐ。そして、あなた方の前に現れる彼らの言葉は、私以上に鋭く大きな痛みを与えるはずだ。そして、無罪と判決した方々、あなたたちこそ真の裁判員である。今回の判決は、私にとって悪いことではなく、むしろ善いことだった。死がこの世からあの世に向かう引越しのようなものであれば、とても興味深い。懐かしい友人が大勢いるし、私と同じような不名誉な告発で死刑となった者たちとも語り合いたい。この世でやっていたような問答を、あの世でもやれると思えば、最高ではないか。始めから死んでいるのだから、恨まれて殺される心配もない。死というものは、決して悪いものではないのだ。恐れず、希望を持って欲しい。最期に、私の残された家族、息子たちを頼む。もし彼らが出世や金に目が眩んで腐敗したならば、その時は私以上に息子たちを問い詰めてやって欲しい。それが私の願いだ。さあ、そろそろ時間だ。これで終わりにしよう。私は死ぬために、あなた方は生きるために。どちらが良い運命に巡り合うか。それは、誰も知らない」

こうして裁判が閉廷すると、ソクラテスは投獄された。岩穴に鉄格子がついた牢で、ソクラテスは刑の執行を静かに待っていた。そんな中、ソクラテスの弟子たちが彼の身を案じ一同に駆けつけた。

「みんなキミの味方だ。金さえ払えば、脱走を見逃してもらえる。ソクラテス、早くここから出よう!」

クリトンは、息を切らしながらそう言った。だが、ソクラテスは首を横に振った。

クリトン
ソクラテスと同じ年頃の老人で、彼と同じ地区で育った幼馴染。

「キミを見殺しにすれば、私たち仲間や弟子たちが薄情者だと思われる」

「ありがとう、クリトン。だが、人からどう思われるかなど気にするな。一番大切なことは、ただ単に生きることではなく、善く生きることだ。それは正しく生きることであり、美しく生きることでもある。アテナイの許可を得ず、脱獄することは正しいのか?このまま私がこの世を去れば、不正な裁判による被害者となるが、法を破った脱走者となれば、不正に対して不正で応えたことになる。私を説得しようとするのは諦めろ、クリトン」

クリトンはソクラテスにそう言われ、悲しげにうつむいた。クリトンは、この世界一の弁論家を説得するなど到底叶わないと悟ったからだ。だが、クリトンの説得が跳ね除けられた後、マークがすかさず声を発した。

「一緒にエジプトのピラミッドに行こう!そこに世界の真実がある。あなたが追い求めた答えに、ボクなら必ず案内できる!でも、それには2本のイアルの鍵が必要で。まだ鍵は見つけられていないけど、近いうちに必ず手に入れてみせる。だから......!!」

「何を訳が分からぬことを騒いでおる。時間稼ぎをしおって。足止めしたい気持ちは嬉しいが、無駄だぞ、マーク」

「そんな......」

「だが、私は何も心配していない。お前たちが私の言葉を継ぎ、私の言葉は永遠に生き続けるからだ」

「ボクたちが、あなた意思を必ず継承する!ボクが書き記そう、この言葉を!」

マークがソクラテスに言った。

「マーク、共に今日の出来事を綴ろう。今日だけじゃない。これまでの師の言葉を」

マークの隣にいたプラトンがそう言った。

プラトン
ソクラテスの一番弟子。ソクラテス自身は書を残さず、プラトンを始めとした弟子たちがソクラテスの思想や哲学を伝えた。

「クリトン、時間だ。そろそろ毒薬を持って来てくれ」

ソクラテスは、穏やかな表情でそう言った。

「まだ日も沈んでいないし、そんなに急がなくても」

クリトンは、説得は諦めても少しでもソクラテスと過ごす時間を稼ごうとした。

「いいから、持ってきてくれ」

クリトンは泣く泣く処刑人を呼び、処刑人は毒が入った杯を持ってきた。ソクラテスは上機嫌な様でそれを受け取ると、神に祈りを捧げてから飲み干し、弟子たちの腕の中で息を引き取ったのだった。

フクロウ銀貨
ソクラテスたちが生きた時代のアテナイで流通していたテトラドラクマ銀貨。ラウレイオンも銀山から産出した良質な銀でできていることから信頼度が高く、ギリシア圏で最も広範に流通していた。アテナイのシンボルであるフクロウ、アテナ女神がもたらしたオリーブ、発行都市アテナイを示すAΘEの文字が打たれている。



知っていると安易に答えを出すのではなく、問いを立てて探求し続ける。これがソクラテスにとっての賢者の態度だった。そして、それこそが人類や国家の発展に繋がると、彼はいち早く気づいていた。ソクラテスの死後、無知の自覚に目覚めた若者たちが、近代科学を生んでいった。ソクラテスは弟子のプラトンらのように形のあるものは、何ひとつ残さなかった。だが、その言葉を多くの人間に贈り、誰よりも後世に影響を与えた。人は自分が知らないことに対し、本能的に恐怖する。だが、ソクラテスは、自分のやりたいことは恐れずに取り組むという生き方を貫いた。だからこそ、彼はその人生を誰よりも輝かせることができたのだろう。自分を変えたい、一歩踏み出したい。そんなキミは、今こそソクラテスの言葉に耳を傾けてみるべきなのかもしれない。


Shelk🦋

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?