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アンティークコインの世界 〜皇帝を刻まない特別なローマコイン〜

帝政期のローマコインには在位中の皇帝の肖像が刻まれた。今の君主が誰であるのかを民衆に知らしめ、権力をアピールするためである。そして、皇帝たちは民に自身の崇拝を要求した。いわゆる、皇帝崇拝である。ローマ皇帝は神として扱われ、崇めるべき対象とされていた。だが、イスラエルの神を唯一神とするユダヤ人には皇帝崇拝は宗教上行えないものだった。皇帝を崇拝することは、自らの唯一神を否定することになるからである。ローマ人たちはユダヤ人たちの特異な思想を不思議に思いながらも、反乱を起こされては面倒なため、認める形を採っていた。ユダヤ教には偶像崇拝を禁じる掟があった。それゆえ、ユダヤで発行されるコインには皇帝の肖像を刻むことが避けられた。これはローマ人なりの配慮だった。ユダヤ教徒の思想を認めることで、税がきちんと収めてもらえるなら、そちらの方がローマ人にとっては大事だったのだ。 それでは、ローマ支配下のユダヤ人が発行していたコインを見てみよう。

ユダヤ属州のエルサレムで発行されたプルタ銅貨。表面に椰子の枝葉、裏面に「ネロ」を意味する銘文が刻印されている。銘文は以下の通り。表面の銘文は、「LE KAICAP OC(ネロの治世5年目)」。裏面の銘文は、「NEPWNO(ネロ) 」。本貨は銘文が示しているようにネロの治世5年目に発行された。即位から5年間のネロの治世は、「黄金の5年間」と市民から賛美されるほど善政だった。だが、この後若き皇帝はしだいに暴君として振る舞うようになる。解放奴隷の恋人アクテ との結婚を母アグリッピナに否定されたことが、人格崩壊のはじまりの要因だったと考えられている。

通常、ローマ帝国領の貨幣には皇帝の肖像が刻まれる。だが、ユダヤ属州で発行される貨幣は、偶像崇拝を忌むユダヤ教徒の慣例を配慮し、皇帝の肖像を表さなかった。下手に反感を買って一揆を起こされても困るため、ローマ人はユダヤ教徒たちの思想を尊重した。

本貨が発行された時代のユダヤ属州では、アグリッパ2世が地方自治を統括する王として即位していた。だが、これは名目上のものであって、ほとんど決定権はローマ皇帝の元にあった。

プルタ銅貨は当時のユダヤ社会で最も額面が低い少額貨幣で、日常の買い物等に頻繁に利用された。新約聖書に登場する貧しい未亡人が神殿への賽銭として投げ入れたお金は、プルタ銅貨と考えられている。

ユダヤとは発行背景が異なるものの、フリギア地方でも皇帝の肖像を刻まないコインが発行された。フリギアはローマ帝国の支配下にありながらも、自治権を有していた特別な地域だった。それゆえ、コインには皇帝ではなく、土着の神々の姿を刻んだ。こうしたコインは発行地及びその周辺でのみ流通したもので、造幣枚数もさほど多くなかったと考えられる。このコインの興味深いところは皇帝の肖像を刻んでいない部分でもあるが、もうひとつ刻まれたモティーフにも面白い点がある。

ローマ帝国下のフリギア・ヒエラポリスで100〜225年に発行された額面不詳銅貨。ヒエラポリスは、現在のトルコ・パムッカレに位置した古都である。通常、ローマ帝国下のコインには皇帝あるいは皇族の肖像が刻まれるが、本貨はそのルールから逸脱した珍しいタイプで、発行地及びその近隣でのみ流通した。表に医療の神アスクレピオス、裏に天罰の女神ネメシスを刻んでいる。

ヒエラポリスは温泉地であったことから、医療の神アスクレピオスが滋養の意味合いで描かれたことは想像がつく。だが、なぜ天罰を下すネメシスも描かれているのか?ここでひとつ疑問に思うかもしれない。だが、天罰の女神としてのネメシスは彼女の一側面にしかすぎない。

実は、ネメシスは二面性を持つ女神だった。トルコ西部イズミルに位置した古都スミュルナで行われていたネメシス信仰が本貨の謎を解く答えとなる。一般的に知られるネメシスは天罰を与える役割を担う。だが、彼女は容赦なく天罰を下す側面と穏やかで恩恵を与える側面、二つの性格を持ち合わせていた女神だった。ヒエラポリスで発行された本貨は、恩恵者としてのネメシスを描いているのだろう。

なぜ彼女が二面性を持つ女神とされたのかは定かではない。だが、エジプトのセクメトのように二面性を持つ女神はいる。セクメトが二面性を持つ理由は、母の子を思う優しさと子を守る強さに由来する。普段は心穏やかでも、我が子を守る母は時に凶暴で力強い。

ネメシスもギリシア神話では母としての側面がある。セクメトの例に当てはめるのは難しいかもしれないが、近いものはあるかもしれない。また、ネメシス信仰が盛んだったスミュルナが都市内でエリアを二分割していたため、その性質を女神の性格にも影響させたという説もある。

ちなみに、ヒエラポリスとは「聖都市」の意である。エジプトのヒエログリフは「聖刻文字」とも呼ばれるが、それと同じ例である。

謎の答えは私たちが気付かないだけで、実はあちらこちらに、そして意外にも身近なところに落ちていたりする。それに気付けるのは偶然の場合もあるが、本物を観る回数によって養うこともできる。もちろん、日々の読書、アカデミックな専門書によって基礎知識を付けておくことも欠かせない。でも、本当に大切なことは教科書ではなく、教室から出た後の放課後の世界にある。

諦めなければ夢は叶う。専門や学歴は大事なことなのかもしれない。けれど、そういう立場でないと研究していけないのだろうか。シュリーマンやカーターのように専門家でなくとも名声を得た人物たちはいる。「全ての道はローマに通ず」という言葉を思い出そう。諦めない心もまた、ローマの真実へときっと通じている。

To be cotinued...

Shelk 詩瑠久

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