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2020年の日記

2021年になった。
とても寒い冬で各地で雪が降り、東京は年明け早々に非常事態宣言が発令された。年末に、サウナでぼんやりとテレビを聴いているとトランプのニュースや菅首相の血も涙もない会見、この世界がまるでフィリップ K ディックが描いたディストピアそのものに思えてまるで他人事のようなぼーっとした気分に襲われた。

2020年は多くのものが変わった。それが良かったのか悪かったのかは分からない。いくつかの仕事は無くなった。観光客目当ての商売は軒並みたち行かなくなった。それは、日頃の不誠実さが暴かれることでもあったが誠実な人々でさえも仕事を失った。人が外に出ることがなくなる、中間領域がその行動の途中にあるようなものがなくなってしまった。テレワークという言葉。パソコンを前にできる仕事。それらをできない多くの人がいる、変化に乗れない人々、体を使う仕事。駅の重要性は低くなった。貧しい人は、UBER EATSの配達員になった。それは、決して立場が逆転しない、たとえばデパートの従業員が休日に接客してもらうように立場が時によっては逆転するということもないただただ格差の様子を描く。UBER EATSの配達員はUBER EATSをあまり頼まないだろう。現代の奴隷制度、そこから起きる強盗事件はかつての富豪を襲う貧民のようだ。

80年代や90年代のような個人の独立なんて夢のようだ。もはや、私たちは互いに助け合わなければならない。日々の生活を生きるだけでいっぱいなのにそういう現実はないかのように振る舞う。給料は決して上がらない、その代わりに副業をしろという、平日は会社勤をして休日は副業をする。それがやりたいことをするということなのだろうか。

朝起きて、スマートフォンをつける。
仕事があるだけマシなのか、Slackに書き込む。かつてインターネットは逃げ場でもあったが今はただの現実そのものになった、現実とインターネットが逆転したのか、SNSは綺麗事が飛びかい現実の飲み屋でそれらから外れた秘密の共有がなされる。

インターネットは、心を束縛してくる。ろくに仕事をしていないんじゃないかと誰もが不安になっている。コワーキングスペースもテレワークも工場労働以下の環境だ。コワーキングスペースの卓球台や素敵な植物はその仕事の本質的な無機質さ、辛さを覆い隠すために存在している。
工場労働の方が労働のためのスペースを用意している。自由な働き方という名のインターネットによる束縛や支配、それらは物理的な制約がない分、働いていない時間まで労働者の心に制約を課している。誰もが、不安感に苛まれている、裁量性という名の管理放棄、もはや管理ができていない、ここまでやれば良いというアウトラインを決めていないのに、どこか働きが不十分だと思わせる、そういう管理職事態も必要がない。必要のない会議、ブルシットジョブを入れて不安を和らげる。このコロナの最中でデビッド グレーバーが亡くなった。

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webデザインの仕事をする。
昔からの知り合いのデザイナーの方の紹介でホテルのサイトを作っている。爽やかな青年風の男性のディレクターという人がホテルの構想について話してくれている。ディレクターが作った資料を読んだが吐きそうになった、おしゃれな路線、いけてる何かになりたいのは分かったが俺なら絶対泊まりたくないようなコンセプト、何かを残そうとすること、ダサいならダサいでシンプルでいい、そんな考えではダメなのだろうか。自分の脳内を再現してほしいのだろうか。
それから、2回か3回かのデザイン案を見せた後、企画がどうたらという理由で私は担当を外された。おそらく素敵なシンプルなデザイン、みたいなものに答えられなかったからだろう。自分なりに譲歩したが無理だった。その仕事の最中に大きな口内炎ができてずっと治らなかった、自分のストレスを自分で気付けずに代わりに体が表現している。そこで、口内炎の薬を飲むことを覚えた。

あまり人当たりのいい性格ではないので、デザイナーとして今後も長く続けていくなんてことはあまり考えられない、だからといって他にやれそうもないところが辛いところだ。
都内の狭いワンルームに住む独身である私はコロナ期間の過ごし方が難しかった。風呂も沸かせるようなものでもなく、たまに銭湯に行く前提だったりしていて街の機能ありきで生きている身としてはリフレッシュが難しかった。
一度、あまりに飽きてきたのでだいぶやすくなった都内のおしゃれなホテルに泊まった。ルームサービスもバーもやっていなかったけど普段なら泊まれないようなところに入れるのは嬉しかった。そこで久しぶりにお風呂に入った。

中野のスーパーも、コロナが始まった頃あらゆる食材がなくなっていた。冷凍食品やスパゲッティーといった保存食やバターやなど。それらがなくてもあまり困らなかったが、どことなく不安感はあった。備えがあまりないこと。またこうやって最も簡単に日常が崩れていくこと、それは震災のあった2011年を思い出させた。マスクを買えなかったが、私は両親から20枚ほどもらったのと彼女からもいくつかもらった。それのおかげで助かった。

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レコードを聞くのは楽しい、レコードを買うのも楽しい。ジャケットだけでもかっこいいのに音楽まで聴ける、2つの役割がある。それは本も同じでそういうものが好きだ。ICEAGEというバンドはロックダウンブルースという曲を出した。SLACKもそのようなコロナについての人々の曲を出した。ただ、私が聞いて楽しい気持ちや落ち着いた気持ちになれたのは少し前のそのような状況とは関係のない曲だった。KID FRESINOはNO SUNという曲を出した。それは、悲観的でもなく抵抗的でもなく今を歌ってるようで優しかった。年末に出た、Rondoという曲も悲しいまでに美しい。人に会うなと大人が号令する中でしなやかに繋がりを持ち続ける、爽やかさ、少しのノスタルジー。銀杏BOYZはテレビの番組で女優の松本穂香さんと真夜中の散歩をして、ラブホテルで語り合っていた、その中で歌う歌は心に響いた。

テレビ千鳥が深夜2時から10時に上がった、初回は河原で石を拾うという企画だった。深夜の最後の回で大悟がお笑いど真ん中と言って拳を突き出してださいと笑われるくだり。それは本心でお笑いを再起動しようとしている。それは、死んでしまった志村けんの笑いを今によみがえらせることも含んでいる。オードリーのオールナイトニッポン、生きることをラジオが中心であるかのように若林は出来事を話す。普通で止まるところをラジオのネタのために踏み込む。

中野の銭湯で昭和湯という場所がある。いつも昭和歌謡が流れている。風呂の温度熱く、設備はだいぶボロいがなんとなく居心地がよい。夜中に行くといつも来る客がいる。彼は、長髪で中性的な見た目をしていていつもすぐにサウナへと入っていく。深夜の銭湯はあまり人もいないのでその時間を狙っているのだろうか。ある時、サウナに入った時に彼はおじさんに話しかけられていた、すごく古いグループサウンズの話をしていて若いのによく知ってるねぇみたいな感じで話をしていた。彼はどうやらミュージシャンのようだった。どんな音楽をやっているのだろうか。とても古い音楽を知っている。やっている音楽がかっこいいといいなぁと思う。

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年末は、どこにも出掛けられれずに家で過ごした。例年なら、高校の同級生や予備校時代の友達と集まることが多いが今年はそれもできなかった。会社の小さな集まりと友達と後輩と下北沢で少し飲んだくらいだった。今年は、テレビ千鳥のDVDと北野武のブルーレイを配った。あとは本をいくつか。感染者数が増えたこともあって、コロナが始まった頃のように本を買った。戸田ツトムのユリイカは面白かった。彼はいくつかの方向に開かれている。デザイン、タイポグラフィーを追求するいわゆるグラフィックデザイナー、初期のMacを使いDTPの可能性を探る人、またそれらを使いCG表現を使うメディアアーティスト、そして難しい文章を使う独自の思想家、それは彼が装丁を担当したフランス現代思想とも繋がるような哲学の地平に繋がっている。さまざまなタイプの人がテキストを寄せていた。戸田ツトムの逸話の中でも筑紫明朝体の製作に携わった話が好きだ。若い頃の藤田重信さんの話だ。杉浦康平などに対して魅力を感じないのに対して、戸田ツトムに魅力を感じるのは新しいメディアに対する実験精神のようなところ、それこそ現在の実験的なモーショングラフィッカーやクリエイティブコーダーのような側面があるところが大きい。

年末はマーク・フィッシャーの本も再読した。資本主義リアリズムと我が人生の幽霊達。この2冊は友達にあげたのでまた買った。Joy Division論のところは何度読んでも素晴らしい。JoyDivisionの黒さは、PILよりも黒い、ベースを主体とする曲の構造においてよりブラックミュージック的であるみたいな暴論も含めてJDを現在において立ち上がらせる。音楽において、かつてのクラフトワークやオウテカほどの革新性は来ない、穏やかな未来の消去、その無力感と倦怠の中のうつの中の奇妙な幸福感。

この未来の消去という感覚が一番しっくり来たのが、サイバーパンク2077というゲームをやった感覚だ。サイバーパンク2077には、あらゆるポップカルチャーのオマージュが入っている。主題としても、ロックバンドのメンバーがテロリズムに走るという場面もあり1990年代くらいまでの音楽史、またそのあたりに作られた映画や小説の残骸で作られれている。2020年にリリースされたにも関わらずその時間の蝶番は外れてどこかに置き忘れてしまっている。ノスタルジアの塊、それはバグの多いゲーム性も相まって過去の亡霊達の住処のような様相を見せている。UIデザインにおいても、クリシェ的な表現にとどまっておりアイアンマンなどで作られた新しいスクリーングラフィックスにおける実験も存在しない、サイバーパンクはもはや未来ではなくある分野のフェチズム、ノスタルジアの表現となってしまっているのだ。

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今はiPad ProのNotionの画面を眺めながら、Burialのレコードを流しながら、twitterのタイムラインを眺めながら、歯磨きをしながら、文藝の最新号の小説を読み終えたところだった。未来はわからない。不安定なものを見ないようにしたりないものにすると人は何か別のものになってしまう。私はいつも不確かなままでありたい。確固たる自分などいらない、上手くならない、過去の形式にフィットすることを良しとしない、未知のストレンジさに向かう。そして低いほうから憧れていたい。

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