「田舎の未来」を読んで刺激されたこととか

本文は以下の本を読んでの感想です。
http://tababooks.com/books/inakanomirai

所感
冒頭の「田舎だからできることと、その可能性について」はおそらく著者が大学生の頃に書いた文章だと思うがその瑞々しい問いかけにまずは心打たれた。それは、とても弱いナイーブな問いかけである。
この本を読んで色々と自分が考えることを多くの部分で刺激された。
それは、本文中にも取り組みとして出てきたRhetoricaを読んだ時に近い感覚でもある。レトリカはものづくりの場所をどうやって存在させることができるだろうかという問いであるのに対して、「田舎の未来」はどうやったら(自分自身が一杯一杯にも関わらず)他人のために何かをできる余地を残した生き方を実践できるかという問いであるように感じる。よく言われる10年代のサバイブ主義のようなものから一歩別な方向へというよりはそもそもそういったより賢くなって稼いで生きようみたいな主義ではそもそも生きられない、と考えているのだろう。それは本文中にも出てくるがそのような時流に乗れない人、田舎で細々と仕事をしているが身体を壊してしまった時や、もしくはそういった仕事をこなしていた人でさえうつ病であったり何らかの事情で続けることが困難になる場合がある。
そういった立場は自分の身内かもしれないし、自分にだって起こりうることだろう。そういった考え方にはとても共感できるというか自分自身もそういった実感の元で生きている感じもある。
何よりも、よくある成功したセレブの人助けのようなものではなく自身の家族の話から始まることそれが身近な誰かにも起こっている問題だろうと考える想像力を持っていることそしてそれに向けてアクションを起こそうとしていることが好感を持てる。

領域横断的であること
領域横断的というのはとてもおこがましい認識だと思う。むしろ、領域を横断しないほうが難しいしどんな人であれ何かと何かのハブになっている。しかし、私自身そういった領域横断的であろうと心がけてきた気がしている。(恥ずかしいことだけれど)それは、例えばパンク真っ盛りだった19歳20歳頃に友人のヒップホップのパーティーにスキニージーンズで出かけていた。そんな自分に何かしら誇りを持っていたようにも思う、音楽については、信念を崩される快感みたいなのを覚えてからどんどん自身の嫌いだったものを受け入れるようになっていった。それは、どんな人とも音楽の話ができるようになる楽しさみたいなものもあった、音楽についてはもちろん自分が好きな領域もあるがそれ以上に自分の中に他者のための領域を確保していこうという気持ちがヒップホップであったりダブステップという別の領域への興味と重なって今日まで続いていることなのだと思う。そしてそのような態度はジャンルレスであろうとすることの生き方の根本にある意識なのではないだろうか。

仕事を展開する領域について
私自身は普段、webデザイナーとして働いている。そんな中で、当たり前のように会社では評価されるもの軸がある。それは、時間に対してどれくらいの利益を上げたのかだったり仕事が評判になって新しい仕事に繋がるとか賞をとって知名度が上がるとか、それはおそらくイノベーションのジレンマにある定義でいうとその会社の「価値判断」というもので多くの人間はルールの中で自身の立場が良くなるように動いていく。それがデザインの領域だった場合は巨大な利益を上げている企業のより上層なレイヤーでの仕事を独占的に請け負うことになる。それは、デザインが弱き人々のためではなくより資産を持った企業や人にのみ提供されていくような流れを生んでいくことになる。道端や町には疑問をもつものがたくさんあるにも関わらず、デザインの力を使う対象は金を持った人々に対してだけなのだ。綺麗なものをより綺麗にすることにのみ躍起になっている。私自身はそもそもそんな競争に興味はない。しかし、一方で大きなデザイン事務所に勤めている私自身もこういった状況に手を貸している一人である。そんな中でここでもできるだけデザインの力を身近な路上のような場所にも使っていきたいと思って、カルチャーを手助けする活動を行なっていたり、農業関連や町工場のような場所での仕事をやろうとしている。
カルチャーで言えば、SCOOLという演劇などのイベントを行うスペースのwebサイトを作った。また、PUGMENTというアートとファッションの中間領域で活動するユニットのwebサイトを作ったりなどをしている。
http://scool.jp/
https://pugment.com/


自分自身を振り返る
私は今33歳であるが、振り返ってみると20代の働き始めた頃は手取りで20万円もいかないような状況で美術大学に通った際の奨学金を月8万円ほど返済しなくてはならずにいけない状況で実家から出られる余裕なんてなくとても苦しかった。
それを知らない友人たちからは実家暮らしであることを馬鹿にされたりもしたこともある。(働いていた東京に実家があること自体が救いという考え方もある)
そんな中で、インタラクティブ広告領域の端っこの方でsemitransparent designやSimoneといった会社の仕事に憧れながらちょっとでも近づけるようにとそれだけを考えて日々過ごしていた。そして、その時代に考えたことというのはあまり思い出せないがとても甘いものだったと思う、ただ一つ現在に置いて役立っていることはデザインのスキルとプログラミングのスキルがあるということだ。
例えば、田舎の困った状況をどうにかしたいという素晴らしい志を持ったとしてもスキルがなければ何もできない。ただ一つ他の人よりも上手くできるものというものをwebデザインというものに定めて過ごしていた。もちろん今後も、それだけをやっていくというつもりはないが今ではそのスキルを通じて幾人かの人々の力になることができていたりこれからできそうだったりしている。そして何よりも大事なことはスキルを身につけた段階でさえ甘い理想を失わないようにすること、それは他者の領域をいつまでも自分の中に確保し続けることではないだろうか。

生きがいとは
飲み会で今の生きがいって何だっけみたいな話になるが生きがいってよくわからない。昔はもっと、バンドやってる瞬間とか演奏した時とか絵を描いてる時とかほんと最高って感じでそういう初期衝動みたいなものの中でずっといきていきたいと思ってきたけど最近はそういった溢れ出す自身や衝動みたいなものが薄れてきて路頭に迷っているみたいな感覚がある。
それで、ご飯を食べることが幸せとか子供を育てることとかよりプリミティブな領域の幸せみたいなのもめちゃくちゃわかるようになってきてしまった。まずいと思っている。(そういったことに幸せを感じている人を馬鹿にするつもりは毛頭ない)
私自身は生きがいというものをその手前の何か痩せ我慢のような領域においていきていたいと思うのだがしっくりした答えが見つかっていない。それは己の存在が、余裕というのか自分がリラックスする以上のミラクルが誰かに与えられるかもしれないという希望を持っておきたいという願いだと思う。

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