Twitter文学を読んだ

自意識の塊で、人からどう思われているのか・どう見られているのかを異常に気にするくせにプライドだけはいっちょまえに高い自分自身のことを言われているのかと思う箇所がいくつかあって、読んでから空虚感を感じた。

私は東京の大学に行ったわけではないけれど、東京に対する憧れはみんなと同じように抱いている人間の1人だと思う。
なんとなく東京に行けばいまの自分を変えてくれるのではないか・理想の生活を手に入れることができるのではないかと漠然と考えていた時期があったから、何もわかっていなかった昔の自分を勝手に投影して、心をえぐられるような感覚があった。

結局のところ、理想の生活も理想の人生もどこかに転がっているわけではなくて、それは本当に自分が勝手に作り出した幻にすぎないんだなとつくづく感じた。
周りからどんなにいい生活をしているように見えても、当の本人が自身の現実を受け止めて自分自身を肯定できない限り、現状に満足することも幸福を感じることもないような気がした。

身につけているブランドとかステータスとか見た目とか年齢とかでその人自身を推し量ることなんてできるはずがないし、その人自身の人格や価値を決めるものではないよな。
そんな浅はかなものでその人自身を位置付けられるのであれば、世の中は頭を使わなくていいくらいに薄っぺらくて簡単で単純になっているんじゃないかなと思う。
そんなもので自分自身を固めたとしても、いつかは人間性の浅はかさや薄っぺらさに誰かが気づいてメッキを剥がされる日がくることは多分間違いない。それに見合う人間じゃないから。

それだったら、自分の幸福と価値をそんなもので決めてしまわずに、自分自身が決めた幸福の定義に従って、生きていくほうがよっぽど自分自身を幸せにしてあげられる気がする。
人と比べてもいいことなんて一つもないし、結局他人は他人なんだから、そんな奴らに私の幸せを邪魔されてたまるかという気持ちでいっぱいになる。
だから私は、人がいろんなステータスや持っているお金の量で人間性や価値を決めようとしている間に、ソクラテスが言ったみたいに、善く生きること、楽しく生きること、世の中のできる限りのことを知り尽くそうとすることを掲げて元気いっぱいに生きていくんだ。

友達は少ないし、今の土地に知り合いは少ないし、会社の人間ともあまりうまくいっていないし、恋人もいないけど、仕方ない。
これが今の私なんだから受け止めるしかない。
自分だけの幸せを自分が与えてあげられるように、日々奮闘。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?